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歓びというより苦みを感じさせるイタリア映画 [おすすめシネマ]

再び下高井戸シネマへ。
今回はイタリア映画『歓びのトスカーナ』

2人の女性が精神病院から脱走して…
みたいな予告編を読んで、まず連想するのは『カッコーの巣』と『テルマ & ルイーズ』ですね。

片や男性、片や女性中心目線の映画だけれど、いずれも抑圧から解き放たれて…
というような内容。
なにせ『歓びの』ですからね。

トスカーナと映画と言えば、14,5年前にダイアン・レイン主演の『トスカーナの休日』という映画があった。
夫に裏切られ離婚した寂しい中年女性が、傷心の旅で訪れたトスカーナで、かつての伯爵邸を格安で衝動買い、そして出会いが…
なんて映画があったくらいだから、トスカーナってところは欧米の人たちのあこがれの土地なんでしょうね。
ずっと昔、サウンドトラックが大ヒットした『ブーベの恋人』も舞台はトスカーナなんですって。知らなかった。

この映画の舞台は、トスカーナの郊外、緑豊かな丘の上にある石造りのお屋敷のような館。
精神障害者が暮らす施設である。
修道女やソーシャルワーカーがいるけれど、医師はいない様子。
でも、けっこう具合の悪そうな患者もいて、長期滞在者も多そう。
ここはどんな施設だろうと、首をかしげる。
なにせ、イタリアは精神病院(今は、正式には精神科病院というのだが)を廃止したのではなかったか?
こうした大勢が世話を受けて暮らすリハビリ施設はあるのね。
映画制作にあたって、スタッフやキャストはこうした施設をいろいろ見て歩いたそうだ。

たしかに庭は広く、菜園もあって、入所者たちは昼間は自由に過ごしている様子。
ただ、夜はいくつもの部屋にかなりの人数が寝ていて、ドアもなく、カーテンで仕切られているだけだったり、プライバシーも何もあったものではない感じ。
寝る前の薬はスタッフが、入所者の口へ入れているし…。
その薬をすぐ吐き出して、高値でベアトリーチェに売る入所者たち…。ベアトリーチェという、いかにもお嬢様の名前の中年女性、これがこの映画の主役の一人である。
なんとなく、『カッコー』のマックを連想する。
調子が高く(イタリア人で調子が高いとなると、とんでもないことになる)、お節介焼きで、映画パンフレットによると「虚言癖」という診断名?がついているらしい。
なにしろ、有名セレブや貴族や政治家や法曹界の人たちを知り合いだというのが口癖だ。

そこに自殺企図のうつ病患者、ドナテッラが入所してくる。
アンジェリーナ・ジョリーに風貌の似たドナテッラ。全身タトゥーをしていて、いかにも傷ついてきた女という感じ。
彼女にはレイプされて生んだ息子がいたが、その後、薬物依存や犯罪歴を理由に、無理やり引き離され、養子に出されてしまったのだ。会いたい思いで、夜には一人で涙する毎日。
さっそく世話を焼くベアトリーチェ。(でもタトゥーには批判的)
迷惑がるドナテッラ。
そんな二人をスタッフは、けっこうお互いによい影響を及ぼしあっていると見ていた。

やがてドナテッラが回復したところで、スタッフは二人揃って近くの農園に院外作業に行かせることにする。
二人が院外に出ていれば、ここは静かで助かるというのが本音。いかにもあるある。

ドナテッラはこつこつと働くが、ベアトリーチェは綺麗なスカーフを首に巻き、パラソルをもって作業する人たちをただ眺めて止まらぬお喋りをするばかり。
でも、毎週1回の給料日には、おなじ賃金が支払われる。だれも文句は言わない。
二人はそのお給料をもって街に買い物に出かける。
田舎だと思ったら、街にはとってもおしゃれなショッピングセンターがあって、都会風。

その後、農園に戻った二人は、通りかかったバスに飛び乗る。
ベアトリーチェはドナテッラに息子に合わせるといい、引っ張り出したのだ。
さあ、ドナテッラは息子と会えるのか…。

行き当たりばったりの旅のように見えるが、ベアトリーチェにも目的があった。
それは夫との再会(決して口にはしないが)。
そして、彼女の意外な背景が明らかになる。彼女の狂気に潜む悲しみ。
ベアトリーチェ役のヴァレリア・ブルーニ・テデスキは、いかにも迷惑なお騒がせ女を演じるが、どこか気品があって、実の妹はサルコジ元フランス大統領の夫人なのだそうだ。
『欲望という名の電車』のブランチを思わせるところもある。

これ以上はネタバレになるので書かないが、問題はタイトルである。
『歓びのトスカーナ』
これはないんじゃない?
原題は“La Pazza Gioia”. ネットでの翻訳では「狂牛病の喜び」。変ですね。
どうやら「狂った歓び」という意味らしい。
(日本語にも狂喜乱舞という言葉があるけれど、ちょっと違う。)
いずれにせよ、解放の喜びとはほど遠い、最初はやたらうるさくて、やがて人生の苦さを感じさせる映画である。

映画の最後に、イタリアでは2015年に法律で司法精神病院も廃止されたということが告知される。たしかに、この映画の中にもドナテッラが警察につかまって司法精神病院に搬送される場面があるが、半世紀以上は前の設備を思わせる、日本の精神科病院だって今やこんなところはないという巨大な部屋にいくつものベッドが並ぶ収容施設だ。
でも、結局のところ、何らかの世話をしてもらう環境を必要とする人たちが社会には一定程度存在するという現実を、どうやって受け止めて、よりよい制度を作っていくかは、まだどこにも正解が得られてないということなのだろう。

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チベット映画『草原の河』を観る [おすすめシネマ]

『歓びのトスカーナ』というイタリア映画を見ようと思ってネットで検索したら、
銀座での上映は終わっていて、東京近辺では下高井戸シネマというところで、やっているという情報を得た。

この映画館のことは、全く知らなかったが、下高井戸シネマのサイトで上映予定の映画のリストを見てみると、けっこう良質の映画が並んでいた。
シニア料金もあるし、近ければ会員になってちょくちょく行きたいなあと思ったが、はて、下高井戸ってどうやっていけばいいのか。
でも、千代田線は新お茶の水で都営新宿線の小川町駅に接続していて、さらに笹塚で京王線の各駅に乗り換えれば、意外と時間もかからないことが判明。
これは、ラッキーかも。

で、9月の上映リストの中に『歓びの~』より前に、チベットの映画があった。
タイトルは『草原の河』。1日1回、10時からの上映。
かつてチベット語を学んでいたという友人を思い出したので、連絡を取ると、すぐに行く!ということで、さっそく一緒に観に行った。

彼女によれば、チベットといっても、チベット族の居住する地域は、大きく3つの地域に分かれていて、言葉もそれぞれ方言があって違うのだという。

一つは、ラサを首都とするチベット自治区。「ウー・ツァン」と呼ばれる。
ヒマラヤ山脈の北にあって、ネパールに国境を接している。
ここがふつう私たちがチベットというときに、想像する地域である。

もう一つは、その東側に位置する、中華人民共和国の四川省と一部雲南省にまたがる「カム」と呼ばれる地域。
さらに、その2つの地域の北側、中国青海省の「アムド」と呼ばれる海南チベット族自治州。

この映画が撮られたのは、このアムド地区であり、海抜は約3060メートル。
青海湖と呼ばれる広い湖があり、大部分がどこまでも続く草原である。
一部は砂漠化しているという。
遠くに雪を頂く険しい山々が臨めるが、そもそもこの海抜なので、さほど高く見えない。

ここはこの映画の監督、ソンタルジャの故郷で、
主人公のヤンチェン・ラモ(本名のまま出演)は、監督の遠い親戚なのだそうだ。
(監督の妹のダンナの弟がヤンチェン・ラモの父。遠い姪っ子ってこと?)
家族はアムドで半農反牧の暮らしをしており、映画に登場する放牧地、畑、テント、羊の群れはすべてヤンチェン・ラモの家族のものだという。

監督が里帰りした際に、偶然会って、とくべつなオーラをもっている子だと気付いたことから、この映画の構想が浮かんだという。
そして、彼女の家族とともに生活し、撮影しながら、脚本をつくっていったのだそうだ。
つまり、この映画はこの6歳の女の子によって実現したといってもよい作品なのである。
彼女は上海国際映画祭で、アジア新人賞と最優秀女優賞を史上最年少で受賞した。

父親役のグル(これも本名のまま)も監督の親戚で、アムドの生粋の牧畜民である。
母親ルクドル役のルンゼン・ドルマだけが、チベットの有名な歌手で、監督の友人なのだそうだ。

牧畜民といっても、もともとは放牧で生活を立てていた人々で、今は定住しているが、
春になると草原に出かけ、テントのような家をはって、牧草の種をまき、羊の放牧をしている。
ただ、かつては馬に乗って、羊を追いかけていた牧畜民も、現在ではそれがオートバイに代わった。
(どこで給油するのだろうと、見ていて不思議だったが。)

そんな家族と暮らすヤンチェン・ラモは甘えっ子で、6歳になっても乳離れができていない。
お父さんに買ってもらった大きなクマのぬいぐるみを肌身離さずもっている。

母に甘え、ときにすねる彼女の表情の豊かさ!
母が妊娠しもうすぐ赤ん坊が生まれるということを知り、不安を抱く子どもの心の葛藤をヤンチェン・ラモはみごとに表現する。

この家族にはもう一人の重要人物がいる。父方の祖父である。
今は村から離れた山の洞窟にこもって仏教の修行をしており、人々からは「行者さま」とあがめられている。
だが、父自身は、この祖父と確執があり、何年も会っていない。
これがこの映画のもう一つのストーリーの柱である。

そこにはチベットー中国の激動の歴史がからんでくる。
若い頃、仏教を学ぶ修行をしていた祖父は、
文化大革命でチベット仏教が弾圧されたときに、還俗を強いられたのだ。
その後、家族をもち、子どもも生まれたのだが、「改革開放」政策によって、仏教が再び認められると、祖父は向学の志止みがたく、家族を捨て再び出家したのである。

父グルからすれば、自分の父に捨てられたのである。
さらに、母が癌になり、亡くなる前に父と会わせたいとグルは山へ迎えに行くが、行ってできることはなにもないと、断られてしまう。
それ以来、グルは父を許せないでいたのだ。

だが、この父も病で残された時間も長くない、なぜ会いに行ってやらないのだと信徒に責められ、グルはヤンチェン・ラモをオートバイの後ろに乗せ、父を山の洞窟に訪ねていくのだが…。

この祖父の役を演じたのは、キードゥプという地元に暮らす僧侶である。適役の人を見つけるのに苦労し、何度も足を運んで、ようやく出演を承諾してもらったのだそうだ。

さらに、この映画にはとんでもない名優が出演している。
仔羊のジャチャである。
ヤンチェン・ラモは、母羊を狼に殺され、みなしごになった仔羊に乳をやり、ジャチャと名付けて可愛がる。
やがて成長したジャチャを群れに帰す時がやってきた。
だが、どこまでもヤンチェン・ラモを追いかけるジャチャ。
しかし、そのジャチャの姿が見えなくなる。

チベットの高原に広がる大自然の、息を呑むような美しさと過酷さ。
そして、こんなところにまで及ぶ政治の動き。
その中に生きる人々の、普遍的な愛と憎しみの葛藤。

久々に映画を堪能した感じがした。

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傷だらけの人生 [こんなことあんなこと]

毎週1回、実家の整理に行くことだけが決まった仕事となり、気づいたらもう5ヶ月が経った。
姉と二人での整理作業も、果てしなく続くかに見えたが、確実に物は減っているように見える。
ただ、その減ったかなりの部分は、そのまま二人の自宅に持ち帰っているから、
自宅のほうが大変なことになっている。

なにしろむか~しからの物が押し入れ深くに眠っていて、それを引っ張り出すだけでもたいへん。暗くて中がよく見えないところを手探りで、中のものを引っ張り出していたら、
いきなりこたつ板(昔の分厚くて重い木の板)が倒れ掛かってきて、あわてて腕で抑えようとしたら、手首の外側にえらい傷を作ってしまった。

打撲と擦り傷を合わせたような傷で、1週間経ってもグジュグジュの傷が治らず、むしろ赤みが広がっていく感じだったので、近くの皮膚科を受診。
かなり前から、たまにお世話になっているお医者さんだけど、かなりのお年。
だけど、とても親切なお医者さんで、10時の診察開始のときから待っている患者が玄関の外に列をなすほど。
午前中の診察が終わるのも、2時近く。午後は3時からなんだけど、終わるのは8時ないし9時ごろになるみたい。
患者は一応、診察券を出して、「〇時間後にもう一度来ます」と告げて、出直してくる。

亜鉛クリームにステロイド剤を混ぜた特製のお薬を処方され、朝晩取り替えること2週間。
手首だもんで、会う人ごとに「自傷?」とか「リスカ?」などと聞かれる。
事情を話すと、「やっぱりそうじゃない?」と。

3週目にしてようやく、薬はもういいでしょうと言われたが、瘢痕が板の角の形に赤くくっきり盛り上がって残ってしまっている。
おまけにテープでかぶれて、赤みがかった湿疹痕のようなシミもまわりに残り、あ~れ、雪のような柔肌が・・・(だれも言ってくれないから自分で言う)。

と、そこへきて、実家からもってきたT-Falの電気ポットで、同じ手首の反対側に火傷。
表と裏に傷ができた。

目の前の棚の上のものを取ろうとして手を伸ばしたら、下に電気ポットの注ぎ口がちょうどあって、噴出した湯気がもろに手首を直撃。
あっと思った瞬間、すぐに水道水で冷やしたのだが、火傷ってなかなか厄介。
表面上はただれもなにもないのだが、
日が経つにつれ、どんどん皮膚の奥にまで赤みが進んでいくみたい。
これでまた、皮膚科受診しないといけないか…。
今、悩んでいるところ。

キッチンのガスコンロと水道栓、洗面所と風呂場の水道栓を業者に取り替えてもらって、いい気分なのだけれど、ご本体(私の身体)のほうを取り替えてもらわないと。

なにしろ、新しいガスコンロのグリルは、タイマーや温度調節のコントロール盤がついていて、おまけにメニューを選べば、魚を焼くにも、生魚/干物/姿焼きと選べるのだ。
さっそく干物を焼いてみたが、臭いもしない。
そのままトーストもできる。(トースターが不要になった)
最近のガスコンロはすごい。

すごすぎて、取り付けた業者の人が一通り、機能を説明してくれたのだけど、いざ実際に使おうと思えば、トリセツを持ち出して、調べないといけないのが難点。

でも、今のマイブームは焼き野菜。
夏野菜は焼くと最高。



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平和主義の女当主 [本のはなし]

もう決まり文句のようになってしまいましたが、時間のたつのが速すぎる!
7月はあったのか?
雨が降らず、梅雨がなかったようだった7月が終わると、
梅雨になったかのような8月。
そして数日前には、まるで”梅雨明け”のカンカン照り。
何なんでしょうね。

今日は、おすすめブックス。
中島京子さんの『かたづの!』(集英社文庫)

最近文庫になったばかりだが、Amazon情報によれば、2年前に「柴田錬三郎賞、歴史時代作家クラブ賞作品賞、河合隼雄物語賞の3冠を受賞し、王様のブランチブックアワード2014の大賞にもなった話題作の文庫化」。

中島京子さんと言えば、『小さいおうち』で直木賞を受賞したことで有名。
私もそれしか読んでおらず、今はもっぱらFaceBookで多彩な活動ぶりを追っている。
ちなみに、映画『小さいおうち』は、生前、母と二人で観た最初で最後の映画となった。
大正14年生まれの母は、自分の青春時代そのままだと、感激していた。

で、『かたづの!』である。
へんてこなタイトルだと思ったら、「片角」なんですね。
角が1本しかない羚羊(カモシカ)。
「!」がついているのが、おもしろい。

ジャンル的には、歴史ファンタジー小説ということになるらしい。
たしかに語り手がこの片角のカモシカだから、ファンタジーには違いないのだが、
それが「虚」であると思わせない語りぶりがすごい。
ぜんぜんありそうに思えるのだ。(へんな日本語?)

時代は、江戸の慶長年間。
舞台は、今の青森と岩手にまたがる地域。
主人公は、根城南部氏当主直政の妻・祢々。

根城南部氏は、「南部氏の一族で盛岡藩士の氏族。清和 源氏の一流で河内源氏の傍流・甲斐源氏南部氏流にあたる。八戸根城を根拠地としたため、八戸南部氏ともいい、また江戸時代に遠野に移ったため、遠野南部氏ともいう。」とWikipediaに載っているように、史実に基づいている。

祢々は、片角のカモシカと巡り合う。
このカモシカが語り手なのだが、早々に死んでしまい、遺された片角が霊力をもち、祢々を守り導いていくことになる。
祢々は幼くして直政に嫁ぐが、夫が政争に巻き込まれて亡くなった後、出家し女当主となる。
この祢々、女ながら(性差別!)賢く、たくましい当主となっていくのだ。

戦となると色めき立つ侍たちの中にあって、
祢々は、「戦でいちばん重要なのは、戦をやらないことです。やらなくても利が得られるならやる必要はないし、やって利が得られないなら絶対にやってはならない」「戦が起きたら、勝つのではなく負けぬことです。なるべく傷が浅いうちにやめることだ」と説く。
この平和思想は、今の著者の考えでもあろう。

このように、虚実とりまぜての物語なのだが、その「虚」の部分が、物語が進むにつれ、いや増していき、怪しげな猿だの蛇だのカラスだのが登場してきても、そのときはもう、なんでもありのように思えてきて、驚きもしなくなる。

しかし、その「虚」は、祢々が晩年移り住んだ遠野に残る伝説とつながっていると聞くと、ますます現実とファンタジーとが入れ混じり、不思議な世界を体験することになる。

その人生は喪失と悲しみの連続なのだが、それも乗り越えていく祢々さまだけでなく、
女当主となってからの、イライラと怒りっぽい祢々さまもなかなか素敵だ。
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修繕の日々 [日々の出来事うっぷんばなし]

何かが壊れるときには、決まって立て続けに壊れるもの。
マンションも築20年ともなると、あっちこっちに不具合が。

この夏、ガス給湯器が2度目の交換、
ついでにガスレンジも安全装置の付いたものに交換。
なにしろ、うっかりミスが現実に起こりうるミスになりつつあるので。

さらに、水回りが次々と限界に。
キッチンと洗面所と、ついでに風呂場のシャワーの水栓を一斉に交換する予定。

一番大掛かりなのが、トイレの便器の取り換え。

まずは、タンクの水の調節がうまくいかなくなり、
ときどき空になって水が出なくなり、自力でタンクに注水しなければならなくなった。

さらに、深刻だったのは、ウォッシュレットからの油漏れ。
そのせいか、ギコギコ言うようになった。
便器の内側にオレンジ色の油が垂れて浮いているのを見つけたときには、自分の体調が悪いのかと恐怖におののいて、内科で検査してもらった。もちろん、異常なし。
人体から油が排泄されるなんてありえないよね。人造人間じゃあるまいし。(古い表現!アンドロイド?でも、アトムじゃあるまいし、最近のアンドロイドは油なんか差さないよね)

そのうちに便器の外側の床に油だまりができ、
家庭用の洗剤ではこすっても落ちなかったので、義兄に工業用洗剤を分けてもらい、きれいに落とすことができた。
やっぱりウォシュレットの不具合と確信。
全体を取り替えることにした。
業者にも連絡して、見積もりをとってもらい、ガス・水道・トイレを一斉に新しくすることにした。
(トイレの取り換えは5時間ほどかかるそうだ。その間、トイレは使えなくなる。どうすりゃいいんだ?水も飲まず、我慢するか?)


続いて、ホームページの修繕。
昨年、前のPCが壊れて、新しいPCにした際に、アプリの移行ができなかったので、
HPの更新ができなくなってしまっていた。

何度かソフトの会社とメールでやり取りして、いろいろやってみたが
どうしてもHPの更新までたどり着けず、あきらめていた。
だが、10月からのグループのメンバーを募集するためには、
どうしてもHPを更新しなければならない。
もう一度、相談係の人からのメールを印刷して、じっくり読み直し、
最初からやり直してみた。

まる1日かかって、ようやくHPの更新ページを開くことができ、
何度か試行錯誤を繰り返しながら、何とか更新内容を書き込むことができた。

ただ、右のサイドバーが消えてしまった。
フィジーの写真を載せていたのだけど。
それに画面が左に寄ってしまって、中央に来ない。
なんだか変。

でも、夜も更けてきたので、今日はこれでおしまい。
また、明日にでも気力が残っていたら、トンテンカン修理するつもり。
問題は、すべて気力なんだよね。
なにしろ、実家の整理と並行してだから、かなりしんどいのである。

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久々のリーバス警部 [本とテレビ番組]

まとまった読書の時間がとれなくなって(定年退職したのに、おかしなことだけど)、
ハヤカワのポケミスを読む機会がめっきり減った。
寝る前に読むには重くて、字が小さすぎるのだ。
そして、ひさびさ手にしたのが、イアン・ランキンのスコットランドはエジンバラを舞台にしたリーバス警部シリーズ『寝た犬を起こすな』。

リーバスもいつの間にか定年退職して、いったんは民間人となったが、迷宮入り事件の再調査に参加した(『他人の墓の中に立ち』・・・これを読んだかどうか記憶がない)後に、正式に復職した。
だが、もはや警部ではなく、部長刑事だ。
かつての部下、シボーン・クラークが今は上司(警部)である。
そこに新たに警察の内部監察室(苦情課)に所属していたマルコム・フォックスが、組織の改編で犯罪捜査課に異動になり、シボーンのチームに加わる。

英国のEU離脱によりスコットランド独立の機運が盛り上がっているのは知られているが、スコットランド警察の8管区もまもなく統合されて、ポリス・スコットランドとなるのだそうだ。ロウジアン&ボーダーズ警部本部の本部長もイングランドの新しい役職に異動するなど、警察組織が大きく揺らいでいる最中である。

ちなみに、本書に登場するフォックス警部補は、ランキンのもう一つのシリーズとなっているキャラクターである。
ルールに従わず、自由奔放に捜査を進める一匹狼リーバスに対して、警官の内部規律違反に目を光らせる立場だったフォックスという、敵同士といってもよい間柄の二人がどうやってチームを組むことができるのか。
だが、フォックスのいた内部監察室も、同じ警察官でありながら、他の仲間に忌み嫌われる存在だったので、こちらも一匹狼ではあるのだ。
そこが本書の面白いところである。
その間に入って、ヤキモキするシボーン警部。

さらにスコットランド司法次官として、スコットランド法曹界のトップに就任したエレノア・マカリが、なにやらフォックスに何事か意を含ませている様子だ。

リーバスとシボーンが手掛けることになったのは、エジンバラ空港からほど近い田園地帯の道で起きた自動車事故である。
意識不明で発見されたのは、ジェシカ・トレイナーというエジンバラ大学の学生。果たして本当に彼女が運転していたのか・・・。
実は運転していたのではないかとリーバスらが疑う彼女のボーイフレンドは、スコットランドの法務大臣の息子だった。スコットランドは英国から独立すべきだと主張している政治家だ。
一方、ジェシカの父親も、ロンドンの実業家でロンドン警視庁の上層部に知り合いがいるという。なにやら政治絡みのきな臭い匂いが。

やがて、この事件が過去の警察の闇の部分へとつながっていく。
実は、犯罪捜査課に異動してきたフォックスは、新任司法次官のマカリからある事案の捜査を頼まれていた。
それは、30年前のサマホール警察内にあった、「裏バイブルの聖人たち(セインツ)」と呼ばれる秘密結社のような警官たちのグループが捜査の過程で行っていたさまざまな不正行為である。
当時の警察は、令状なしの捜索、脅し、暴力、取引など、起訴~有罪に持ち込めるようなら、なんでもあり、だったのだ。

30年後の今、一事不再理の規則が緩和され、過去には有罪に持ち込めず、無罪放免となっていた殺人犯を再び捜査できることになったのだ。その陰にはサマホールのセインツたちが絡んでいたらしい。
その中心人物だった警部は、退職して成功した実業家となっている。
その部下たちも、引退しているが、再捜査の手が伸びるとあって、戦々恐々としている。
リーバスも新人としてその端くれだった。下手をすれば、リーバスの身分も危うくなる。仲間を裏切ることになるのか…。

こうして、1件の自動車事故と30年前の警察の不祥事と、ふたつの事案の捜査が絡み合いながら進んでいく。

イアン・ランキンのリーバス物といえば、なんとなく煤けたエジンバラの街並みとスコットランドの鉛のような曇り空を思わせる重苦しい雰囲気が漂っていたと思うのだが、しばらくぶりに読むと、心地よいテンポで話が進んでいくことに感心した。
シボーンやリーバスが勤務するゲイフィールド・スクエア署の刑事たちが、煙たい上司の裏をかいてリーバスらをあ・うんの呼吸で助けるのも面白い。
なんとなくテレビドラマを見ているようだ。

ちなみに、スコットランドでは、ドラマ”Rebus”が放映されており、シリーズ1と2はジョン・ハナーが、シリーズ3からはケン・スコットがリーバスを演じて、どちらがよりリーバスに近いかという論争が起きたようである。fbvscoela71si7mir72a Rebus.jpghttps://drama.uktv.co.uk/shows/rebus/
私はDVDでハナーのリーバスしか見たことがないが、ハナーはリーバスにしては線が細すぎ、若すぎて重厚感に欠けるように思った。
写真だけではケン・スコットに軍配が上がりそうだが、一度見てみたいものだ。
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フィンランドの森の物語 [おすすめシネマ]

6年も前に公開された映画のDVD.
積読本ならぬ、積読ビデオになっていたのをようやく観た。
クラウス・ハロ監督・脚本の『ヤコブへの手紙』。

75分という短い映画ながら、フィンランドのアカデミー賞の最多4部門を受賞し、アメリカのアカデミー賞外国語映画賞にも出品された作品。

静かな映画である。
主要な出演者もたった3人。
フィンランドの片田舎の森に一人で住むヤコブ牧師と刑務所から恩赦で出所した女性レイラ。それに、毎日ヤコブ牧師に手紙を運ぶ郵便配達人の3人だけ。
それぞれが個性的。

時代は70年代。
12年間刑務所暮らしをしていたレイラは、仕事と住まいを提供してくれるというヤコブ師のもとをバスではるばるたずねていく。
湖のほとりに立つ教会からさらに、森の中を歩いてたどり着いたのは、白樺の木々に囲まれた古ぼけた家。
迎えてくれたのは年老いたヤコブ師1人。
彼の目が見えていないことにレイラは気づく。
彼女に課せられた仕事は家事ではなく、ヤコブ師に悩める人々から毎日届く手紙を読み上げ、それに返事を書くというものだった。

嫌々ながら仕事をこなすレイラ。
いかにも70年代の服装をした、だらしなく太った中年女性を演じるカーリナ・ハザードという女優さんが、無表情の中にいかにも長い刑期を刑務所で過ごしていた人と思われるふてぶてしさと狡猾さをにじませて、うまい。
なにしろ、手紙を読み上げるほか、ほとんどセリフはないのだ。

案の定、届いた手紙を黙って捨ててしまうレイラ。
毎日、自転車で手紙を届けに来る郵便配達人は、刑務所帰りのレイラに不審と警戒の念を抱くが、身体のでっかいレイラにとても太刀打ちできない。
レイラとやせて小柄な郵便配達人のやりとりも面白い。

そんな中、突然、手紙が配達されなくなる。レイラは郵便配達人を追いかけ、問いただすが、「来ないものは来ない」と言って逃げていく。
手紙が来なくなったヤコブ牧師はふさぎ込み、日に日に身体が弱っていく。
レイラはヤコブ師が教会に行っている間に黙って出て行く決心をして、タクシーを呼ぶ。
そして、タクシーに乗り込んで「どこまで?」と運転手に問われて愕然とするレイラ。
タクシーは去っていく。
言葉はないのだが、レイラにはここよりほかに行く場所がないのだということがヒシヒシと伝わってくる。

やがてレイラは、届いた手紙を読むふりをして、自分の秘密を語り始める…。
そして、ヤコブ牧師がなぜ恩赦を受けたレイラを引き取ることにしたのか、その秘密も明かされる…。
ここで号泣(私)。

その後の展開を記すのは、控えておこう。

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マンケル・ヘニング『流砂』が伝えようとしていること [本のはなし]

2年前の2015年10月5日、北欧ミステリー「刑事ヴァランダー」シリーズの作家として有名なヘニング・マンケルが亡くなった。

 彼と彼の作品については、このブログでも何度も紹介しているが、ミステリーだけでなく、児童文学でもスウェーデンのアストリッド・リンドグレーン記念文学賞を受賞する一方で、長年アフリカに通って劇場を運営するなど、世界で幅広く活躍していた。67歳の若さでこの世を去るのは、本人にとってもさぞや無念だっただろう。

『流砂』(東京創元社)は、彼がある日突然、回復不可能な末期がんと知ってからの葛藤の日々の想いを、彼が出会ったさまざまな絵画に投影しながら綴ったエッセイ集である。
1年前に出版されてすぐ読んだのだが、なかなかブログに載せられないでいた。
内容があまりに濃く、重く、いろいろ考えさせられることがあったからである。

彼はそれより2年前の雪の日に遭遇した自動車事故がすべての始まりだと思っている。
その時は何でもなく、病院にも行かなかったのだが、その後、首が痛むようになり、事故の後遺症を疑って受診した病院で、自分にはもう時間がないことを知らされたのだった。

それ以来、彼は子ども時代のことをよく思い出すようになった。
そのとき彼は、「自分の身に起きた大惨事をどう受け止めたらいいのか、その答えを知ろうと記憶が必死にもがいているのだ」ということに、気付けなかったと書いている。

彼が思い出したのは、学校に一人で向かったある寒い朝のことである。9歳だった。

その日の朝、夢を見た。彼は薄い氷の張った川べりに立っていた。
その川では数日前に足を滑らせた男の子がおぼれて行方不明になっていた。
子ども心に死を意識したとき、と言えるだろう。
だが、夢の中で彼は、自分がおぼれないという確信があって、怖くはなかったという。
彼は同時に、村民館でよく上映された映画のことを思い出す。彼は映画好きで、子ども禁止の映画の時には忍び込んでみていたという。

そのとき彼は、突然思いがけない言葉が頭に浮かび、その場に凍り付いたように立ち尽くした。その言葉は、その後の人生に鮮明な記憶として残る瞬間だった。
「ぼくはぼくなんだ。ほかのだれでもない。ぼくはぼくだ」
私はその瞬間にアイデンティティを得た、と彼は記す。

ちなみに、9歳という年齢は、河合隼雄も子どもから大人になる重要な年齢だと言っている。
ヘニングは、8,9歳の頃、自分はどんな死に方が一番怖いだろうと真剣に考えたという。
彼がいちばん恐れたのは、湖や川の氷の上に立っているとき、突然氷が割れた小売りの下に引きずり込まれてしまい、明るい日の光が見える氷のすぐ下でおぼれることだったという。
誰にも助けてもらえないパニック。

その次に恐れたのが、本書のタイトルでもある「流砂」である。
砂漠の砂の中に引っ張り込まれ、砂に飲まれて窒息してしまう人食い砂。
彼は泣きもせず、叫びもせず、ただ、がんという流砂に引きずりこまれ、飲み込まれまいとして、ほとんど眠れないまま、10日間が経った。
そして、とうとう砂から這い上がり、事実に向き合い始める。

彼は、がんと知ったとき、突然人生が小さくなったようだったと書いているのだが、
それと相反するように、思考はどんどん拡大し、時空を超えていく。

例えば、フィンランドで、国土の母岩を深く掘り下げて、トンネルと地下室を創り、そこに原子力初天書から出る放射性廃棄物を遠い未来まで埋蔵するというニュースに、彼は放射性物質の毒性がなくなるまで、十万年、人の世代に換算すると三千世代の未来までそこに埋めておくということに思いを馳せる。

彼はそこを見学させてほしいと手紙を書くが、断られる。
1度目はその現場を犯罪小説のネタに使ってほしくないという理由で。
2度目は、見学者の安全が保障できないからという理由で。
それで、自分たちが生きてもいない十万年も先が、どうして安全といえるのか?

彼は自分の恐れを探っていく。
彼は、暗闇を恐れ、一人で寝るときは電灯を何個かつけたまま眠る。
その原因は明らかだった。
川岸に立っていた夢を見た翌年、ある晩、彼は何者かの弱々しい声で眠りから呼び覚まされる。目覚めて真っ暗闇の中で、彼はそれが父の声だと悟る。
明かりを点けてみると、父が吐いた血にまみれて倒れていた。脳出血だった。

母は彼が生まれてすぐ、彼を捨てて家を出て行った。
幸いにもその時父は生き延びたのだが、彼の頭に浮かんだのは、「父にも捨てられる」という思いと恐怖だった。
その瞬間から、暗闇の中には思いがけない恐怖があるという思いが、彼の心の中に根を下ろしてしまったのである。
彼が10代も早くから、家を出て、終生世界を住処として活動し続けたこと、とりわけアフリカへの深い愛の背景には、こうした幼い頃の傷つきからくる、孤独と恐怖があったといえるのだろう。

さて、長くなってしまった。
『流砂』は、これからも彼の生きた日々のエピソードを振り返りつつ、自分自身を見つめる作業と、人類の過去と遥かな未来とを行き来しつつ、彼の思索を辿っていく。

そうして彼は自らの恐怖を受け入れ、和解していく(これも直線状ではないが)と同時に、残していく人類に真剣な警告を発して止まないのだ。

未来に責任をもつこと。

彼が、後に残された私たちに痛切な思いを込めて訴えているのは、これである。
すべての人が真摯に受け止めるべき警告である。

それにしても、もう彼の新作を読むことができないのは、ほんとうに悲しく寂しい。

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岩波書店初の直木賞! [本のはなし]

芥川賞と直木賞が発表された。

とくに直木賞が岩波書店から出版された佐藤正午さんの『月の満ち欠け』に授与されたことは、岩波書店初の直木賞受賞作として、話題となった。
また、佐藤さん自身もかなりのキャリアをもつ作家であり、今更という感があるという。

私はこれまで彼の作品をまったく読んだことがなく、たまたま本屋で「直木賞候補に」という帯を見て、ふと読む気になって購入したのだった。

『月の満ち欠け』というタイトルが、森絵都さんの『みかづき』に似ていたこともあったかもしれない。

死者の蘇り、いわば輪廻転生のようなことがテーマとは、はっきりわかっていなかったのだが、母が亡くなったことも、どこかで影響していたのかもしれない。

帯に「久々の一気読み!」とあったのだが、本を読むのはベッドに入って寝るまでのせいぜい数十分なので、「一気読み」とはいかなかった。

で、とにかく輪廻転生だから、時代を超えて、何人もが登場し、その人ごとに人間関係があるので、とびとびに読んでいると、この人誰だっけということがしばしばあって、最後に最初のほうを読み直すことになった。

しかも、蘇るごとに新たな物語になるのではなく、関係がつながっているので、余計ややこしい。この物語を理解するには、一気読みするしかない。

それに、せっかくの受賞作をけなすようなことばかりいうようで悪いが、
女性が何度も蘇るとしたら、相手に相当な魅力がないといけないと思うのだが、
登場人物の男性にそれほど魅力を感じられなかったし、その動機も、愛情というより、執着といったほうがよいような感じで、なんでこの人のもとにまた戻ってくる必然性があるのか、ピンとこなかった。
とくに幼女が大人の男性に執着するのは、気持ち悪い。
小説の中でも誘拐犯に間違われたりしているが。
間違われちゃって気の毒というより、この女の子の気味悪さのほうが勝る。
蘇るのに事欠いて、なぜにこんな子供にする必要があったのだろう。



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ヨーロッパの映画の面白さ [おすすめシネマ]

フィンランドと言えば、今、オープンダイアローグという地域に展開する家族療法的アプローチで日本の医療福祉関係者の間では一躍有名になっている国。

そのフィンランドの生んだ映画監督といえば、アキ・カウリスマキ。
いつか見たいと思っていたが、今回、遅ればせながら、初めてDVDで彼の作品『ル・アーヴルの靴磨き』を見た。

2011年のカンヌ国際映画祭国際批評家協会賞、パルム・ドッグ審査員特別賞、同年シカゴ国際映画祭グランプリ、同年ルイ・デリュック賞などを受賞した作品。

ちなみに、パルム・ドッグ(PALM DOG)賞とは、Wikipediaによると、カンヌ国際映画祭で上映された映画の中で優秀な演技を披露した1匹またはグループの実写、もしくはアニメーションの犬に贈られる賞とのこと。
その名称は、同映画祭の最高賞であるパルム・ドールに由来する。受賞した犬(たち)には、革の首輪が贈られるのだそうだ。
この年、パルム・ドッグの受賞犬は、『アーティスト』のアギー。
たしかに、アギーには負けるかも。強敵だったわね。

ル・アーヴルは南フランスの港町。
主人公マルセルは路上で靴磨きをしている。
しかし、道行く人々の足元を見ると、ほとんどスニーカーで、革靴などはいている人はほとんど見当たらず、毎日の収入はほとんどない。
近所の店のツケで買い物をして、やっと生計をたてている。
家には愛する妻と愛犬ライカがいて、貧しいけれど幸せな毎日を送っていた。

★ ★ ★ ★ ★

犬の名前、ライカは1988年のスウェーデン映画、ラッセ・ハルストレム監督の『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』に登場する主人公、イングマル少年の愛犬のライカ犬にちなんでいるのだろう。

ライカ犬と言えば、かつてアメリカと宇宙ロケットの開発競争をしていたソ連が打ち上げた小さな人工衛星に乗せられて、世界で最初に宇宙を旅した生物となったのがライカ犬である。
イングマルの母親は病気で、父親は仕事で南洋の海に出かけたまま帰ってこない。
そんな状況でもイングラムは、あのライカ犬の運命を思えば、自分はまだましだと考えているのだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「ル・アーブル」の話に戻って・・・
ある日、近くで何者かがピストルで殺されるという事件が起き、マルセルは靴磨き仲間のベトナム人と一緒に逃げ出す。どうやら人身売買をめぐる抗争があるようだ。
港に放置されたコンテナから、大勢のアフリカからの密航者が見つかる。

一方、マルセルの妻が突然倒れ、入院した病院で余命宣告を受けるのだが、夫には秘密にしてほしいと医師に口止めする。
そんなこととは知らないマルセルは、密航した少年が港に隠れているのを見つける。
少年は、ロンドンにいる母のところに行こうとして、祖父とコンテナに乗っていたのだ。
今や警察に追われる身の少年をマルセルは匿い、近隣の人々とも協力して祖父を探し出し、旅行費を工面しようとする。
追跡する警察・・・。果たして少年はロンドンに行けるのか?

と、まあこんな話である。
最後はびっくりするような結末なので、ここに書くのは控えるが。

すぐに気づくのは、正面から顔をアップにしたショットが多いこと。
あきらかにカウリスマキが尊敬しているという小津安二郎の影響が見て取れる。
人々の生活ぶりの描き方、雰囲気も、小津風である。

これと同じような手法が、英国とイタリアの合作映画『おみおくりの作法』でも見られた。
この映画の監督・脚本・製作を担当し、第70回ヴェネチア国際映画祭のオリゾンティ部門で監督賞を受賞したウベルト・パゾリーニも小津安二郎の大のファンで、小津の映画を意識して作ったというから、小津がヨーロッパの映画人に与えた影響がいかに大きなものだったかが分かる。

『ル・アーヴル』の中ではライカ犬だけでなく、登場人物の名前がいろいろな過去の映画にちなんでつけられていたり、
『おみおくりの作法』でもあるショットが『ほくの伯父さん』で有名なジャック・タチ監督へのオマージュとなっているなど、
過去の映画を自分の作品に積極的に反映させようとしているのは、興味深い。
普通だったら、真似だとか、ひどい場合は盗作だとかの非難を受けかねないだろうから。
どういうメッセージなのだろう。
インターネットの時代、映画の先行きが危ぶまれるから?

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