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歓びというより苦みを感じさせるイタリア映画 [おすすめシネマ]

再び下高井戸シネマへ。
今回はイタリア映画『歓びのトスカーナ』

2人の女性が精神病院から脱走して…
みたいな予告編を読んで、まず連想するのは『カッコーの巣』と『テルマ & ルイーズ』ですね。

片や男性、片や女性中心目線の映画だけれど、いずれも抑圧から解き放たれて…
というような内容。
なにせ『歓びの』ですからね。

トスカーナと映画と言えば、14,5年前にダイアン・レイン主演の『トスカーナの休日』という映画があった。
夫に裏切られ離婚した寂しい中年女性が、傷心の旅で訪れたトスカーナで、かつての伯爵邸を格安で衝動買い、そして出会いが…
なんて映画があったくらいだから、トスカーナってところは欧米の人たちのあこがれの土地なんでしょうね。
ずっと昔、サウンドトラックが大ヒットした『ブーベの恋人』も舞台はトスカーナなんですって。知らなかった。

この映画の舞台は、トスカーナの郊外、緑豊かな丘の上にある石造りのお屋敷のような館。
精神障害者が暮らす施設である。
修道女やソーシャルワーカーがいるけれど、医師はいない様子。
でも、けっこう具合の悪そうな患者もいて、長期滞在者も多そう。
ここはどんな施設だろうと、首をかしげる。
なにせ、イタリアは精神病院(今は、正式には精神科病院というのだが)を廃止したのではなかったか?
こうした大勢が世話を受けて暮らすリハビリ施設はあるのね。
映画制作にあたって、スタッフやキャストはこうした施設をいろいろ見て歩いたそうだ。

たしかに庭は広く、菜園もあって、入所者たちは昼間は自由に過ごしている様子。
ただ、夜はいくつもの部屋にかなりの人数が寝ていて、ドアもなく、カーテンで仕切られているだけだったり、プライバシーも何もあったものではない感じ。
寝る前の薬はスタッフが、入所者の口へ入れているし…。
その薬をすぐ吐き出して、高値でベアトリーチェに売る入所者たち…。ベアトリーチェという、いかにもお嬢様の名前の中年女性、これがこの映画の主役の一人である。
なんとなく、『カッコー』のマックを連想する。
調子が高く(イタリア人で調子が高いとなると、とんでもないことになる)、お節介焼きで、映画パンフレットによると「虚言癖」という診断名?がついているらしい。
なにしろ、有名セレブや貴族や政治家や法曹界の人たちを知り合いだというのが口癖だ。

そこに自殺企図のうつ病患者、ドナテッラが入所してくる。
アンジェリーナ・ジョリーに風貌の似たドナテッラ。全身タトゥーをしていて、いかにも傷ついてきた女という感じ。
彼女にはレイプされて生んだ息子がいたが、その後、薬物依存や犯罪歴を理由に、無理やり引き離され、養子に出されてしまったのだ。会いたい思いで、夜には一人で涙する毎日。
さっそく世話を焼くベアトリーチェ。(でもタトゥーには批判的)
迷惑がるドナテッラ。
そんな二人をスタッフは、けっこうお互いによい影響を及ぼしあっていると見ていた。

やがてドナテッラが回復したところで、スタッフは二人揃って近くの農園に院外作業に行かせることにする。
二人が院外に出ていれば、ここは静かで助かるというのが本音。いかにもあるある。

ドナテッラはこつこつと働くが、ベアトリーチェは綺麗なスカーフを首に巻き、パラソルをもって作業する人たちをただ眺めて止まらぬお喋りをするばかり。
でも、毎週1回の給料日には、おなじ賃金が支払われる。だれも文句は言わない。
二人はそのお給料をもって街に買い物に出かける。
田舎だと思ったら、街にはとってもおしゃれなショッピングセンターがあって、都会風。

その後、農園に戻った二人は、通りかかったバスに飛び乗る。
ベアトリーチェはドナテッラに息子に合わせるといい、引っ張り出したのだ。
さあ、ドナテッラは息子と会えるのか…。

行き当たりばったりの旅のように見えるが、ベアトリーチェにも目的があった。
それは夫との再会(決して口にはしないが)。
そして、彼女の意外な背景が明らかになる。彼女の狂気に潜む悲しみ。
ベアトリーチェ役のヴァレリア・ブルーニ・テデスキは、いかにも迷惑なお騒がせ女を演じるが、どこか気品があって、実の妹はサルコジ元フランス大統領の夫人なのだそうだ。
『欲望という名の電車』のブランチを思わせるところもある。

これ以上はネタバレになるので書かないが、問題はタイトルである。
『歓びのトスカーナ』
これはないんじゃない?
原題は“La Pazza Gioia”. ネットでの翻訳では「狂牛病の喜び」。変ですね。
どうやら「狂った歓び」という意味らしい。
(日本語にも狂喜乱舞という言葉があるけれど、ちょっと違う。)
いずれにせよ、解放の喜びとはほど遠い、最初はやたらうるさくて、やがて人生の苦さを感じさせる映画である。

映画の最後に、イタリアでは2015年に法律で司法精神病院も廃止されたということが告知される。たしかに、この映画の中にもドナテッラが警察につかまって司法精神病院に搬送される場面があるが、半世紀以上は前の設備を思わせる、日本の精神科病院だって今やこんなところはないという巨大な部屋にいくつものベッドが並ぶ収容施設だ。
でも、結局のところ、何らかの世話をしてもらう環境を必要とする人たちが社会には一定程度存在するという現実を、どうやって受け止めて、よりよい制度を作っていくかは、まだどこにも正解が得られてないということなのだろう。

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チベット映画『草原の河』を観る [おすすめシネマ]

『歓びのトスカーナ』というイタリア映画を見ようと思ってネットで検索したら、
銀座での上映は終わっていて、東京近辺では下高井戸シネマというところで、やっているという情報を得た。

この映画館のことは、全く知らなかったが、下高井戸シネマのサイトで上映予定の映画のリストを見てみると、けっこう良質の映画が並んでいた。
シニア料金もあるし、近ければ会員になってちょくちょく行きたいなあと思ったが、はて、下高井戸ってどうやっていけばいいのか。
でも、千代田線は新お茶の水で都営新宿線の小川町駅に接続していて、さらに笹塚で京王線の各駅に乗り換えれば、意外と時間もかからないことが判明。
これは、ラッキーかも。

で、9月の上映リストの中に『歓びの~』より前に、チベットの映画があった。
タイトルは『草原の河』。1日1回、10時からの上映。
かつてチベット語を学んでいたという友人を思い出したので、連絡を取ると、すぐに行く!ということで、さっそく一緒に観に行った。

彼女によれば、チベットといっても、チベット族の居住する地域は、大きく3つの地域に分かれていて、言葉もそれぞれ方言があって違うのだという。

一つは、ラサを首都とするチベット自治区。「ウー・ツァン」と呼ばれる。
ヒマラヤ山脈の北にあって、ネパールに国境を接している。
ここがふつう私たちがチベットというときに、想像する地域である。

もう一つは、その東側に位置する、中華人民共和国の四川省と一部雲南省にまたがる「カム」と呼ばれる地域。
さらに、その2つの地域の北側、中国青海省の「アムド」と呼ばれる海南チベット族自治州。

この映画が撮られたのは、このアムド地区であり、海抜は約3060メートル。
青海湖と呼ばれる広い湖があり、大部分がどこまでも続く草原である。
一部は砂漠化しているという。
遠くに雪を頂く険しい山々が臨めるが、そもそもこの海抜なので、さほど高く見えない。

ここはこの映画の監督、ソンタルジャの故郷で、
主人公のヤンチェン・ラモ(本名のまま出演)は、監督の遠い親戚なのだそうだ。
(監督の妹のダンナの弟がヤンチェン・ラモの父。遠い姪っ子ってこと?)
家族はアムドで半農反牧の暮らしをしており、映画に登場する放牧地、畑、テント、羊の群れはすべてヤンチェン・ラモの家族のものだという。

監督が里帰りした際に、偶然会って、とくべつなオーラをもっている子だと気付いたことから、この映画の構想が浮かんだという。
そして、彼女の家族とともに生活し、撮影しながら、脚本をつくっていったのだそうだ。
つまり、この映画はこの6歳の女の子によって実現したといってもよい作品なのである。
彼女は上海国際映画祭で、アジア新人賞と最優秀女優賞を史上最年少で受賞した。

父親役のグル(これも本名のまま)も監督の親戚で、アムドの生粋の牧畜民である。
母親ルクドル役のルンゼン・ドルマだけが、チベットの有名な歌手で、監督の友人なのだそうだ。

牧畜民といっても、もともとは放牧で生活を立てていた人々で、今は定住しているが、
春になると草原に出かけ、テントのような家をはって、牧草の種をまき、羊の放牧をしている。
ただ、かつては馬に乗って、羊を追いかけていた牧畜民も、現在ではそれがオートバイに代わった。
(どこで給油するのだろうと、見ていて不思議だったが。)

そんな家族と暮らすヤンチェン・ラモは甘えっ子で、6歳になっても乳離れができていない。
お父さんに買ってもらった大きなクマのぬいぐるみを肌身離さずもっている。

母に甘え、ときにすねる彼女の表情の豊かさ!
母が妊娠しもうすぐ赤ん坊が生まれるということを知り、不安を抱く子どもの心の葛藤をヤンチェン・ラモはみごとに表現する。

この家族にはもう一人の重要人物がいる。父方の祖父である。
今は村から離れた山の洞窟にこもって仏教の修行をしており、人々からは「行者さま」とあがめられている。
だが、父自身は、この祖父と確執があり、何年も会っていない。
これがこの映画のもう一つのストーリーの柱である。

そこにはチベットー中国の激動の歴史がからんでくる。
若い頃、仏教を学ぶ修行をしていた祖父は、
文化大革命でチベット仏教が弾圧されたときに、還俗を強いられたのだ。
その後、家族をもち、子どもも生まれたのだが、「改革開放」政策によって、仏教が再び認められると、祖父は向学の志止みがたく、家族を捨て再び出家したのである。

父グルからすれば、自分の父に捨てられたのである。
さらに、母が癌になり、亡くなる前に父と会わせたいとグルは山へ迎えに行くが、行ってできることはなにもないと、断られてしまう。
それ以来、グルは父を許せないでいたのだ。

だが、この父も病で残された時間も長くない、なぜ会いに行ってやらないのだと信徒に責められ、グルはヤンチェン・ラモをオートバイの後ろに乗せ、父を山の洞窟に訪ねていくのだが…。

この祖父の役を演じたのは、キードゥプという地元に暮らす僧侶である。適役の人を見つけるのに苦労し、何度も足を運んで、ようやく出演を承諾してもらったのだそうだ。

さらに、この映画にはとんでもない名優が出演している。
仔羊のジャチャである。
ヤンチェン・ラモは、母羊を狼に殺され、みなしごになった仔羊に乳をやり、ジャチャと名付けて可愛がる。
やがて成長したジャチャを群れに帰す時がやってきた。
だが、どこまでもヤンチェン・ラモを追いかけるジャチャ。
しかし、そのジャチャの姿が見えなくなる。

チベットの高原に広がる大自然の、息を呑むような美しさと過酷さ。
そして、こんなところにまで及ぶ政治の動き。
その中に生きる人々の、普遍的な愛と憎しみの葛藤。

久々に映画を堪能した感じがした。

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フィンランドの森の物語 [おすすめシネマ]

6年も前に公開された映画のDVD.
積読本ならぬ、積読ビデオになっていたのをようやく観た。
クラウス・ハロ監督・脚本の『ヤコブへの手紙』。

75分という短い映画ながら、フィンランドのアカデミー賞の最多4部門を受賞し、アメリカのアカデミー賞外国語映画賞にも出品された作品。

静かな映画である。
主要な出演者もたった3人。
フィンランドの片田舎の森に一人で住むヤコブ牧師と刑務所から恩赦で出所した女性レイラ。それに、毎日ヤコブ牧師に手紙を運ぶ郵便配達人の3人だけ。
それぞれが個性的。

時代は70年代。
12年間刑務所暮らしをしていたレイラは、仕事と住まいを提供してくれるというヤコブ師のもとをバスではるばるたずねていく。
湖のほとりに立つ教会からさらに、森の中を歩いてたどり着いたのは、白樺の木々に囲まれた古ぼけた家。
迎えてくれたのは年老いたヤコブ師1人。
彼の目が見えていないことにレイラは気づく。
彼女に課せられた仕事は家事ではなく、ヤコブ師に悩める人々から毎日届く手紙を読み上げ、それに返事を書くというものだった。

嫌々ながら仕事をこなすレイラ。
いかにも70年代の服装をした、だらしなく太った中年女性を演じるカーリナ・ハザードという女優さんが、無表情の中にいかにも長い刑期を刑務所で過ごしていた人と思われるふてぶてしさと狡猾さをにじませて、うまい。
なにしろ、手紙を読み上げるほか、ほとんどセリフはないのだ。

案の定、届いた手紙を黙って捨ててしまうレイラ。
毎日、自転車で手紙を届けに来る郵便配達人は、刑務所帰りのレイラに不審と警戒の念を抱くが、身体のでっかいレイラにとても太刀打ちできない。
レイラとやせて小柄な郵便配達人のやりとりも面白い。

そんな中、突然、手紙が配達されなくなる。レイラは郵便配達人を追いかけ、問いただすが、「来ないものは来ない」と言って逃げていく。
手紙が来なくなったヤコブ牧師はふさぎ込み、日に日に身体が弱っていく。
レイラはヤコブ師が教会に行っている間に黙って出て行く決心をして、タクシーを呼ぶ。
そして、タクシーに乗り込んで「どこまで?」と運転手に問われて愕然とするレイラ。
タクシーは去っていく。
言葉はないのだが、レイラにはここよりほかに行く場所がないのだということがヒシヒシと伝わってくる。

やがてレイラは、届いた手紙を読むふりをして、自分の秘密を語り始める…。
そして、ヤコブ牧師がなぜ恩赦を受けたレイラを引き取ることにしたのか、その秘密も明かされる…。
ここで号泣(私)。

その後の展開を記すのは、控えておこう。

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ヨーロッパの映画の面白さ [おすすめシネマ]

フィンランドと言えば、今、オープンダイアローグという地域に展開する家族療法的アプローチで日本の医療福祉関係者の間では一躍有名になっている国。

そのフィンランドの生んだ映画監督といえば、アキ・カウリスマキ。
いつか見たいと思っていたが、今回、遅ればせながら、初めてDVDで彼の作品『ル・アーヴルの靴磨き』を見た。

2011年のカンヌ国際映画祭国際批評家協会賞、パルム・ドッグ審査員特別賞、同年シカゴ国際映画祭グランプリ、同年ルイ・デリュック賞などを受賞した作品。

ちなみに、パルム・ドッグ(PALM DOG)賞とは、Wikipediaによると、カンヌ国際映画祭で上映された映画の中で優秀な演技を披露した1匹またはグループの実写、もしくはアニメーションの犬に贈られる賞とのこと。
その名称は、同映画祭の最高賞であるパルム・ドールに由来する。受賞した犬(たち)には、革の首輪が贈られるのだそうだ。
この年、パルム・ドッグの受賞犬は、『アーティスト』のアギー。
たしかに、アギーには負けるかも。強敵だったわね。

ル・アーヴルは南フランスの港町。
主人公マルセルは路上で靴磨きをしている。
しかし、道行く人々の足元を見ると、ほとんどスニーカーで、革靴などはいている人はほとんど見当たらず、毎日の収入はほとんどない。
近所の店のツケで買い物をして、やっと生計をたてている。
家には愛する妻と愛犬ライカがいて、貧しいけれど幸せな毎日を送っていた。

★ ★ ★ ★ ★

犬の名前、ライカは1988年のスウェーデン映画、ラッセ・ハルストレム監督の『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』に登場する主人公、イングマル少年の愛犬のライカ犬にちなんでいるのだろう。

ライカ犬と言えば、かつてアメリカと宇宙ロケットの開発競争をしていたソ連が打ち上げた小さな人工衛星に乗せられて、世界で最初に宇宙を旅した生物となったのがライカ犬である。
イングマルの母親は病気で、父親は仕事で南洋の海に出かけたまま帰ってこない。
そんな状況でもイングラムは、あのライカ犬の運命を思えば、自分はまだましだと考えているのだ。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「ル・アーブル」の話に戻って・・・
ある日、近くで何者かがピストルで殺されるという事件が起き、マルセルは靴磨き仲間のベトナム人と一緒に逃げ出す。どうやら人身売買をめぐる抗争があるようだ。
港に放置されたコンテナから、大勢のアフリカからの密航者が見つかる。

一方、マルセルの妻が突然倒れ、入院した病院で余命宣告を受けるのだが、夫には秘密にしてほしいと医師に口止めする。
そんなこととは知らないマルセルは、密航した少年が港に隠れているのを見つける。
少年は、ロンドンにいる母のところに行こうとして、祖父とコンテナに乗っていたのだ。
今や警察に追われる身の少年をマルセルは匿い、近隣の人々とも協力して祖父を探し出し、旅行費を工面しようとする。
追跡する警察・・・。果たして少年はロンドンに行けるのか?

と、まあこんな話である。
最後はびっくりするような結末なので、ここに書くのは控えるが。

すぐに気づくのは、正面から顔をアップにしたショットが多いこと。
あきらかにカウリスマキが尊敬しているという小津安二郎の影響が見て取れる。
人々の生活ぶりの描き方、雰囲気も、小津風である。

これと同じような手法が、英国とイタリアの合作映画『おみおくりの作法』でも見られた。
この映画の監督・脚本・製作を担当し、第70回ヴェネチア国際映画祭のオリゾンティ部門で監督賞を受賞したウベルト・パゾリーニも小津安二郎の大のファンで、小津の映画を意識して作ったというから、小津がヨーロッパの映画人に与えた影響がいかに大きなものだったかが分かる。

『ル・アーヴル』の中ではライカ犬だけでなく、登場人物の名前がいろいろな過去の映画にちなんでつけられていたり、
『おみおくりの作法』でもあるショットが『ほくの伯父さん』で有名なジャック・タチ監督へのオマージュとなっているなど、
過去の映画を自分の作品に積極的に反映させようとしているのは、興味深い。
普通だったら、真似だとか、ひどい場合は盗作だとかの非難を受けかねないだろうから。
どういうメッセージなのだろう。
インターネットの時代、映画の先行きが危ぶまれるから?

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たまには日本の映画も [おすすめシネマ]

最近は、ほとんど日本の映画を観る機会がないが、CTVで『ふしぎな岬の物語』を放映していたので、録画してみた。
確か、千葉の海っぺりに実在する喫茶店が舞台だと聞いていたので、関心はあったのだ。
主演の吉永小百合が企画に加わっているということも、2年前に公開された時から話題だった。

ところが、である。
このブログのカテゴリーとして映画については「おすすめシネマ」というカテゴリー名しか作っていなかったので、仕方なくそうしたが、実際は「おすすめしないシネマ」だった。

だって、紙芝居みたいなんだもん。(と、こちらも子供っぽい口調になる)
ぴあ映画生活のサイトでも、「おゆうぎかいみたいな映画」というコメントがあって、やっぱり!と思った。
夜中にレジの金を盗もうと侵入した男に向かって、吉永小百合が「どろぼうさん」なんて呼びかけちゃうところで、もう耐えられなくなって観るのを中止した。

こんな脚本で、俳優たちもよく出演しようという気になったもんだ。
脚本が脚本なので、演技もおのずと「おゆうぎかい」みたいになる。
あの米倉斉加年の最後の出演作というのも泣ける。もちろん情けなくて。

この映画をわざわざ作ろうとした人たちは、「ほのぼの」「心温まる」というのが好きなのかもしれないけれど、それが涙+笑いという単純な発想に堕してしまっている感じ。
でもこれでは、泣けないし、笑えない。
なんだか観客として馬鹿にされた感じさえする。こんなレベルだと。

ビデオ録画だから、途中でやめることはできるけれど、これをわざわざ時間とお金をつかって観に行った人はホントに気の毒だったなと思う。
こういう映画評は新聞にもなかったし。



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ニュー―エイジ・インド映画も面白い [おすすめシネマ]

今年最後のブログは、お正月を家で寝て過ごすという私のような人のための”おすすめシネマ”をご紹介。

たまたまTVをつけたらやっていたのが、このインド映画。
『マダム・イン・ニューヨーク(原題:English Vinglish)』。
新人女性監督ガウリ・シンデ―による2012年の作品。トロント国際映画祭をはじめ、世界各国で公開され、称賛されました。

いわゆる”ボリウッド映画”ですが、インド独特の土着のエネルギーに満ちた歌と踊りの映画とは少し違います。
舞台もニューヨークですし、社会への問題提起を含んだ、いわゆる”ニュー・エイジ”のボリウッドといっていいでしょう。
社会といってもインドだけではありません。世界中どこにでも通じる、普遍的なテーマを含んでいます。

なんでこれを視ようと思ったかというと、主役の女優さんがあまりに美しかったから。
シュリデヴィという、インドでは超有名な女優さんだそうですが、結婚と子育での15年間のブランクを経て、この映画で衝撃的なカムバックを果たしたのだそうです。
ブランクが15年と聞いて驚きますが、年齢は49歳だそうです。全然そうは見えません。

彼女の演技は゛インドのメリル・ストリープ”、優雅さは”インドのオードリー・ヘップバーン”と称されているそうです。日本だとさしずめ吉永小百合といったところでしょうか。
彼女が演じるシャシは、夫と子供に尽くすのが務めと信じているインドの平凡な主婦です。
お菓子を作るのがうまく、自家営業でお菓子を売る仕事も細々としています。

そんな彼女のニューヨークに住む伯母の娘が結婚式を挙げるというので、夫から手伝いに行くよう言われて、シャシはニューヨークへ飛んでいくのですが、言葉が通じないことで大いに傷つく体験をします。

また、夫や子供たちにまで、英語が話せない古いタイプの女性と、あからさまに馬鹿にされ、「なぜそんな扱いを受けなければいけないの?」と憤懣をいだいています。
でも、何も言い返せません。
たまたまバスの車体に描かれた4週間で英語が学べるという語学学校の広告を見て、シャシはそこに皆に隠れて通うことを決意します。

語学学校には、ホモセクシュアルの講師、メキシコ人のナニー、パキスタン人のタクシー運転手、中国人へアスタイリスト、タミール人のソフトウェア・エンジニア、ものを言わないアフリカ系の男性、そしてローランというフランス人シェフがいました。

みなそれぞれの文化背景をもっていますが、言葉を学びたい、コミュニケートしたい、馬鹿にされたくないといった動機は一致しています。
シャシは、その真剣な学習態度としっかりした考え方で、クラスのみんなから一目置かれる存在になっていきます。シャシも手作りのインドのお菓子をふるまいます。

なかでも彼女の美しさに魅せられたローランは、同じ食べ物に関わる者どおしとしての関心から、やがて彼女を真剣に愛するようになり、告白したのですが・・・。

夜は映画のDVDで英語を学ぶシャシを見て、年下の姪がシャシの秘密に気づき、応援してくれるようになりました。
一方、最後に、5分間のスピーチをかきあげ、みんなの前で発表するという最終試験が課せられることが分かりました。でも、その日は、姪の結婚式の日です。お菓子を作るという大きな役割が待っています。

最終試験を諦め、自分の務めをあくまで果たそうとするシャシ。
そこへ、語学学校のみんなが駆けつけます。
姪がシャシに皆と同じように英語でスピーチをするようにと促し、シャシは躊躇しながらも立ち上がろうとした瞬間、夫が変わって立ち上がり、妻は英語ができないからと代弁しようとします。
それを押しとどめ、立ち上がるシャシ。

彼女は、家族とは安心して愛し合い、互いに弱点をあざ笑ったりせず尊重しあう、確執があるときも話し合って理解しようとする、と結婚の良さを英語でとつとつと語り、参加者の胸を打ち、夫も母を馬鹿にしていた娘もふりかえって後悔します。
語学学校の講師が最終試験の合格を告げます。

そして、大団円はボリウッド映画らしく、全員による派手な音楽とダンスの饗宴。

この映画は、監督自身の体験に基づくストーリだそうです。
彼女自身、子供の頃、やはり英語が話せない母親のことを馬鹿にしていたというのです。その贖罪の意味を込めての映画でした。

こうした世代間の文化葛藤は、英語がグローバル言語となった世界中で起きているように思います。
ヨーロッパでは小学校から英語で授業が行われたりしていて、若い人はほとんど流ちょうに英語を話せます。
ところがそうした教育を受けていない中高年の人に、街角で英語で話しかけても、無視されてしまいます。私も最初は、アジア人だからと差別しているのかと思ったのですが、友人に聞くと、英語ができないのでコンプレックスがあって、無視するのだということでした。

また、この映画にあるように、世界の一部では女性に教育を受けさせない社会が多くあります。
映画は、その批判にもなっているのです。

でも、この映画の素敵なところは、何も英語を学ぶこと、言葉をがすべての解決になるわけではないということも、きちんと示しているところです。

シャシとフローランが語り合うシーンでは、シャシがインドのタミール語(か何か)で語る一方、フローランはフランス語で語るシーンがあります。
それぞれの思いを乗せた言葉は、言葉としてはわかりあえないのですが、十分気持ちは伝わっていくのです。
もちろんすれ違い、分かり合えないときもあります。
それがなんだというのでしょう。
そう、監督は言いたいように思います。

考えさせられた後、でもきっとこれから何かいいことがあるさ、と幸せになれる予感がする映画でした。


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