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沖縄・戦争・ものがたり [本のはなし]

今沖縄で、辺野古のヘリパッド建設をめぐって反対する住民の抵抗運動が行われているが、
折も折、原田マハ著『太陽の棘』(文春文庫)を読んだ。

舞台は、太平洋戦争終結まもない琉球。
物語の語り手は、沖縄に駐留する米軍軍医(琉球米軍医療局士官)で、今はサンフランシスコで開業している精神科医エドワード・ウィルソン(通称エド)。
医師になりたての頃、彼は赴任した沖縄で偶然に画家たちと出会う。

この本の解説を書いた佐藤優は、「日本人が沖縄を題材とした作品を書くと、たいていが破綻してしまう」という。
確かに沖縄を描くとすれば戦争の問題は避けて通れないだろうし、太平洋戦争、なかでも沖縄戦を直接体験したことのない作家が、それを描けるのかという疑問はかならず付いて回るだろう。
沖縄人と日本(本土)人の問題も微妙に響いてくる。

佐藤は、この本がその問題をうまくクリアできた1つの要因は、主人公を若い琉球占領軍の軍医としたことだと述べている。
確かに、戦争終結後赴任した医師になりたての若い軍医、しかも精神科医という、医師のなかでもおそらく辺境の存在を設定したことで、占領軍対住民の対立の構図はあまり際立たずに済んでいる。
また、もう一方の画家たちも、戦争中は大日本帝国海軍航空本部に所属する従軍画家として戦地を転々とし、沖縄戦には居合わせなかった。
彼らは戦後、森の奥深くに仲間たちとともにニシムイ美術村という集落を作り、米軍の将校相手に細々と作品を売って生活していた。
エドたちは、休暇でドライブを楽しんでいた際に、偶然その集落を見つけたのである。

沖縄住民は占領軍の米兵を恐怖の目でみていたが、
画家たちの顔には恐れはまったくなく、光に満ちていた。
ゴーギャンのごとく、ゴッホのごとく、誇り高き画家たち、太陽の、息子たち。
彼らの描く絵画もまた、光とエネルギーに満ち溢れた、ユニークなものであった。

そのなかの一人、タイラは、若い頃にサンフランシスコの美術学校に2年間留学していたという。
かつては画家を目指していたエドにとって、そこは憧れの学校でもあった。
タイラはそこで出会った日系2世のメグミと結婚して帰国、東京美術学校に入るが、そこで沖縄出身者として差別される体験をする。
そのまま、従軍画家として南洋諸島に派遣され、戦争画を描いていたタイラは、日本の敗戦後沖縄に戻り、絵画で故郷の復興を目指すことにしたというのである。
終戦後まもなくは、米国軍政府も美術や音楽や踊りといった芸術文化が沖縄の復興の妙薬となると考え、政府内に文化部芸術科をつくり、芸術家たちを生活を含めて支援していたという。
だが、政策の転換で文化部が廃止され、自立を余儀なくされてしまい、タイラたちはこの芸術村を作ったのであった。

エドたちと芸術村の画家たちの交流がこうして始まった。
一方、沖縄では軍の兵士たちの「悪さ」の数々が問題にもなっていた。

集落のはずれに、一人の風変わりな男が住んでいた。
昼間から酒を飲んでいるというその男、ヒガの住む小屋に入ったエドたちは、
そこに不気味な絵を発見する。
どこまでも明るいタイラらの絵画と対照的に、暗闇の中に白い顔がいくつも浮かび上がっている不気味な絵。
思わず、「どうしてこんな暗い絵を描くんだ。明るい絵じゃないと誰も欲しがらないよ」と言ってしまうエド。
突然、怒り出すタイラ。「アメリカーなんて、さっさと、本国へ帰っちまえ」というその目には涙があふれていた。

このことをきっかけに、エドにも沖縄の抱える闇の部分がわかるようになってきたのである。

胸をうつ物語ではあるのだが、残念だったのは、精神科医が主人公であるからには、当然、米軍兵士の心の傷にも言及があるだろうと思っていたのだが、ほとんど出てこなかったことだ。
だが、そのことに触れようとすると、きっと佐藤優が言ったように、この物語は破綻してしまうのかもしれない。
そこまで描ききれるような作家はいないのだろうか。
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江戸時代の市井の人々ー阿蘭陀西鶴 [本のはなし]

朝起きぬけにクシャミがでて、水っぽい鼻水がでてきた。
いよいよ花粉症の季節かと思い、アレルギーの薬を飲んだら、
眠いのなんのって。
夜飲むべき薬だったのね。
仕事もできず、たまらずトロトロと居眠りして1日を過ごしてしまった。

さて、ひさびさに本の紹介。
朝井まかて著『阿蘭陀西鶴(おらんださいかく)』(講談社文庫)

江戸前期の作家井原西鶴とその娘、おあいの物語。
井原西鶴は『好色一代男』や『世間胸算用』などの浮世草子の作者として有名だけれど、
もともとは大阪の談林派という俳壇の俳諧師だったのね。
出世欲が強く、一晩で読む俳諧の数を競う矢数俳諧の興行を打って世間を騒がすような人。
その派手さで、阿蘭陀西鶴と揶揄されたのを逆手にとって、自らそう名乗っている。

しかし、俳諧でいくら有名になったとしても本の売り上げだけでは食べていけない。
そんな父を支えるのが、盲目の娘おあいである。
この本のタイトルは『阿蘭陀西鶴』ではあるが、物語はこのおあいの目からみた(耳で聞き、感じた)父とその世界の物語である。

子供の頃から母に、裁縫や料理など家のことをすべて優しく叩き込まれたおあい。
母が病没したあと、2人の弟たちは他家に養子にやられ、
家ではおあいだけが残った。
母の薫陶のおかげで、おあいは家の中では目が見えないとは思えないほど自由に動き回れ、
人がびっくりするほど上手に料理をする。
父は自宅に人を集めるのが好きで、そのたびに娘自慢をする。
それがおあいとしては嫌でたまらない。

そんなおあいから見た父西鶴は、かえるのような声をだす、下品でどうしようもなく手前勝手な男である。
見栄っ張りで、ええ格好しいの父が、いつも盲の娘のことを心配しているようなことを言うのは、世間の同情を買うためだと、おあいは思う。
父が家のことをかえりみないせいで、母も若くして死に、弟たちとも別れ別れになってしまったと思うのだ。

江戸では松尾芭蕉が新しい俳諧師として台頭してきたのに、対抗心をもやしている。
次々と読む俳諧の矢数を競う俳諧師も増えてきた。
追い詰められた父が俳壇からのそしりもかえりみず、打って出たのが浮世草子の執筆である。
日頃人付き合いがよく、いろいろな人の話を耳にしていたのを脚色して物語にしたのだ。

西鶴は俳諧も物語も、書くときには声を出して読む。
それを聞きながら育ったおあいは、父の苦しみも焦りも、そして得意げな様子もすべて聞き取っていた。
おあいはやがて、父の真意を知ることになる。
ここでちょっと泣けた。

こうした西鶴とおあいの父娘の物語を縦糸として、さらにそのまわりに生きるさまざまな人々の物語が横糸となり、さらに江戸幕府から下される倹約令が庶民の生活におよぼす影響などの背景が描きこまれて、物語に奥行きを与えている。

これまで井原西鶴という人物とその作品については、歴史で習ってきた程度で、実際に読んだことはなかったし、まして歴史の流れの中で捉えてこともなかった。
この物語の中には、芭蕉のほかに近松門左衛門なども登場し、歌舞伎の世界もかいまみられ、ああそういうことだったのだと、学校で習った歴史がようやく動き出す感じがした。
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『ラニーニャ』を読んで知ったこと [本のはなし]

私にとっての伊藤比呂美さんは、詩人というよりも『良いおっぱい、悪いおっぱい』や『おなか、ほっぺおしり』といったいわゆる育児エッセイの著者という印象が強い。

最近では、年齢とともにケアの対象が子供から犬(『犬心』)や父(『父の生きる』)などに変わってきたが、そうした密着した人間関係の生々しい実体験を言葉にしてきたという点では、ユニークな文学者だと思う。

また、『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』では、詩ともエッセイともつかぬ、説教節と詩が融合したような独特の流れのある文体で、父や母の介護に奮闘する体験を描いていたのも、とても面白かった。

今年、岩波現代文庫に入った『ラニーニャ』は、1999年に「野間文芸新人賞」を受賞した作品なので、育児エッセイ以後、『とげ抜き』以前の期間に書かれたものということになる。
詩でもエッセイでもなく、小説。

あとがきを読むと、1997年に夫と別れて子連れでアメリカのカリフォルニアに引っ越したために、お金を稼がなくちゃということで、小説を書くことにしたのだそうだ。

この文庫に収録されているのは、『ハウス・プラント』と『ラニーニャ』と『スリー・りろ・ジャパニーズ』の3作品。
私は、この時期の伊藤比呂美さんの作品をほとんど読んでいなかったので、
この文庫を読みだしたときには、てっきり育児エッセイの続きのように思っていた。
子連れでカリフォルニアにきて、外国人の夫と暮らしているというシチュエーションが、本人のものとそっくりだったので。
ただ、『ハウス・プラント』では「子ども」としか呼ばれない子どもが一人だけだし、『ラニーニャ』では、カノコちゃんではなくあい子ちゃんだし、サラコちゃんではなくグミちゃんだし。
で、これはエッセイじゃないんだと途中で認識した次第。

でも、性や生理にかかわる生々しい言葉はやはり伊藤比呂美だし、『とげ抜き』につながる、説教節的な文体はここにも見られる。
ただ、お金が必要だからと書いたからなのか、なんだか読んでいても苦しくなるような世界だ。
とくに子どもの神経症的な反応が描かれていると、気持ちが落ち込む。
なにせ生まれたころから知ってるからね。
単なる読者なんだけど、ともだちの子みたいな感じがあって。


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話題の『みかづき』 [本のはなし]

今年最後のおすすめブックは森絵都さんの『みかづき』。

発売当初から話題で、年末にきていろいろTVにも取り上げられているので、今更なんですが。

書評を見て通販で購入し、届いた本の分厚さに、まずびっくり。
昔の大きなアルミのお弁当箱くらいある。(この比喩がわかる人はかなり年配だわね)

さらに、読みだすといきなり、主人公(の一人)大島吾郎が運命の出会いをするのが、昭和36年、千葉県習志野市立野瀬小学校、と具体的な年と地名が出てくるので、おやっと思い、これまでのファンタジックな森絵都さんの世界ではないぞと、思わず居ずまいを正した。

子どもが主人公ではない。
とはいえ、最初に登場する舞台が小学校なので、当然子どもはたくさん登場する。
吾郎はこの小学校の用務員なのだが、「勉強がわからない」という子供たちの勉強を用務員室で見てあげているうちに、教え方のうまさから子供たちがたくさん集まるようになったのだ。
その中に、勉強ができるらしいのに、なぜかやってくる女の子、蕗子がいた。

蕗子の母、大島千明はシングルマザーで蕗子を育てながら、家庭教師をやっている。
千明は吾郎の教育の才に目を付け、一緒に塾をやらないかと誘う。

千明は、戦争中、尋常小学校が国民学校に名前を変えた年に入学し、小国民として教育させられた挙句、卒業した年には敗戦で再び小学校に名前を変えたというみずからの体験から、文部省と公教育を目の敵にしているのだ。そして、理想の教育を追い求めているらしい。
公教育が太陽なら、私塾などは月だというわけだ。

最初から、いきなり教育の話?と戸惑う。
その一方で、吾郎が子供の勉強を見てやる気のいいだけの男かと思ったら、
その子供たちの母親と関係をもち、首になるという
性格破たん者のような面をもつことがわかってくる。


ちょっと絵都さんの作品に、こんなドロドロした男と女の話?
と、これも戸惑う。

とにかく、吾郎と蕗子の母、千明は結ばれて、塾を経営することになる。
ときはベビーブームの子どもたちが大勢生まれ、
東京への通勤圏となった習志野周辺もどんどん開発が進み、住民が爆発的に増えてきたころだ。
教え方のうまい吾郎のおかげで塾は大繁盛。
おのずと塾同士の競争もし烈になるのだが、公教育にはない真の教育を追求しようという千明の経営する塾では、塾講師の採用にも教育にも心を砕いているので、評判が評判を呼んで、有名塾となり、次々、近辺に教室を拡大していく。

その一方で、吾郎との間に二人の女の子が生まれる。
蕗子と二人の娘たちも、それぞれ親の影響を受けて、育っていくのだが…。

というわけで、あっという間に年が過ぎ、話が展開していくのだが、
そこに当時の世相が具体的に描かれ、単に男と女の物語ではおさまらない、
社会小説のような展開となる。

絵都さんのインタビューをテレビで見たが、絵都さんはこの小説を書くにあたって、膨大な資料を集め、独自の年表を作ったのだそうだ。実際その年表を見せてくれていた。
たしかに、その甲斐はあって、具体的な商業施設や娯楽施設の名前などもでてくるので、ああ、あの頃はあんなことがあったなあ、と思いをはせつつ読むという楽しみもある。
だが、年表をたどりながら書いたな、という感じがにじみ出ていて、
ちょっとと思ったのも事実。

だが、一家の塾の経営をめぐる波乱万丈の物語を通して、戦前から現代にいたる日本社会の、しかも教育制度に光をあてて、物語を書こうとした発想も意欲もすごいと思う。知らないことも多々あった。
それをだいたい目撃したり体験したりしてきて、とくに大学闘争を経験した私としては、よくぞ書いてくれましたという感じである。

そこに娘たち三人三様の個性あふれる生き方も面白い。
かつてカフェーで女給をしていたという千明の母、頼子というキャラクターもユニークだし。
女たちの歴史として読むこともできる。
ただ、重いのがね。

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アート小説というジャンル [本のはなし]

原田マハさんは前にも取り上げたことがあったと思うが、今回は『デトロイト美術館の奇跡』。
マハさんお得意の名画シリーズ、アート小説というらしい。
帯に「アメリカの美術館で本当に起こった感動の物語」とある。

折しも、上野の森美術館で「デトロイト美術館展」を開催中。
そちらを見てからブログに紹介しようと思っていたのだけれど、この分では行けるかどうかわからないので、紹介してしまうことにした。

デトロイト美術館に所蔵されているセザンヌの<マダム・セザンヌ>がこの本のテーマ。
デトロイトといえば、自動車産業で栄えた都市。
自動車産業とともに衰退した都市でもある。

第1章は、その自動車工場に長年勤めたアフリカン・アメリカン、フレッド・ビルと妻のジェシカの物語。つましい生活の中で、デトロイト美術館(通称DIA)に行き、この小さな<マダム・セザンヌ>の肖像画を見ることを楽しみに生きてきた人たちである。

第2章は、ロバート・タナヒルの物語。フレッドと対照的な大金持ちで、若い時からヨーロッパ美術の有名なコレクターだったが、やはり<マダム・セザンヌ>をこよなく愛し、豪邸のリビングにも飾っていた。死後、その多くをDIAに寄贈し、モダンアートの「ロバート・タナヒル・コレクション」として有名になる。

第3章は、DIAのキューレーター、ジェフリー・マクノイドの物語。やはり、<マダム・セザンヌ>を愛し、そのために故郷から遠いDIAに勤めたほど。膨大な「ロバート・タナヒル・コレクション」のカタログを製作者である。
ところが、自動車産業の破綻により、デトロイト市も財政破綻し、破産が決定的となる。
その穴埋めとして、DIAのコレクションの売却計画が持ち上がる。

そのとき、フレッド・ビルが訪ねてくる。そして、いかに今は亡き妻や自分がここのコレクションを愛してきたか、この絵画こそが友であったこと、もっとも「気の合う友人」が<マダム・セザンヌ>であることを語る。

そして、第4章はデトロイト美術館の<奇跡>。
いかにしてDIAは生き延びたのか。 

そして、今、上野の森美術館でDIAのコレクションが見られるというわけだ。
これは見に行かないわけには行かないではないか。
それに、これだけ近く(歩いていける)に美術館があるのだから、
フレッドのように、ちょくちょく絵画に会いにいってもいいではないか。

と思ったわけ。

ただ、気になったことがあった。
この4章からなるそれぞれのセザンヌ愛が語られているのだが、当の絵に対する3人の感想が、同じようなのだ。
たとえば、どっしりした構図なのに、どこかしら軽やかさを感じる。
服の青は単純な青ではなく、ほんのりとバラ色が混じって、まるで朝焼けの空をまとったようなやわらかさと清々しさがある。それは夫人の頬のほんのり差したバラ色と見事に呼応している・・・。

それほど惚れ込んだ絵画なら、それぞれがそれぞれの言葉で表現できるはずではないか?
まるでカタログの文言をそのまま引用したように、表現するなんて…。

せっかくの名画に傷を見つけたみたいに、残念な気持ちになった。
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ライトノベルにチャレンジ [本のはなし]

一穂ミチ『きょうの日はさようなら』を読んだ。
集英社オレンジ文庫というシリーズ。
2015年1月に創刊されたそうで、サイトを見ると

ちょっとミステリー、
ちょっとファンタジー、
ちょっとロマンス、
ちょっと読みたい
極上のエンターテインメント、
ここにあります。
物語好きのあなたに贈るライト文芸レーベルです。

とある。ライト文芸、ライトノベルをラノベともいうらしい。なんでも短縮するのね。

ところで「きょうの日はさようなら」って森山良子のヒット曲だわよね。
(「きょうの日」って日本語としておかしいね)
30年以上前に中野の患者会にかかわっていたとき、毎月の定例会の最後は、決まってこの歌を合唱して終わった。定番の曲だ。
あらためて調べてみた。

1966年のヒット曲。金子詔一作詞作曲。
こんな歌詞。

 いつまでも 絶えることなく
 友達でいよう
 明日の日を夢見て
 希望の道を

 空を飛ぶ鳥のように
 自由に生きる
 今日の日はさようなら
 またあう日まで

 信じあうよろこびを
 大切にしよう
 今日の日はさようなら
 またあう日まで
 またあう日まで

いかにも60年代の、希望に満ちた時代の歌だ。
今歌うのはこっぱずかしいかも。

で、この歌をモチーフにしたのがこの小説。
主人公は、17歳の女子高生明日子(あすこ)。
といってもややこしいのだが、時代は2025年の近未来。

双子の弟 ひきこもりの日々人と父の3人で暮らしている。
母は病気で亡くなった。
以来、3人の間に会話はない。なぜかきょうだいは父を憎んでいるのだ。
明日子と日々人も、メールでの会話だ。

この作品、あとで語り手が代わるのだが、明日子が語り手のところでは、今風(といっても10年後だが)の言葉遣いで、おまけに汚い男言葉があふれている。
日々人が「ほかに男できたんだろ、クソビッチ」と送れば、「黙れ童貞」と明日子が返すという具合。こんなふたりのやり取りがず~と続くのだから、たまらない。

しかも、「イミフな言葉」とか短縮ワードだらけで、まったく意味不明なことも。

ま、気を取り直して、作品の紹介を。


退屈な夏休み
父が、突然、聞いたこともないいとこがいて、我が家に引き取ると宣言した。
名前は今日子。生まれは1978年。
とすると、年齢は47歳になるはずなのだが、父は今日子たちと同世代だという。

30年前に、自宅が火事になり、彼女以外の一家全員が焼死してしまうという事故があり、
命を取り留めた今日子は、将来の治療を期待して冷凍保存されていたというのだ。
だが、今日子のことは、これまでのいきさつも含めて、一切口外してはならないと父はいう。
理由も明かせないと。

そして、30年ぶりに解凍されてやってきた今日子は、17歳のまま、大好きなセーラー服を昼も夜も着ているという、ちょっと変わった女の子だった。
同世代ではあるのだが、やはり30年の時代のギャップは大きい。
今日子はゲームやコミックの大ファンで、相当な腕前なのだが、
日々人のやっているゲームとはかなり違う。
古いゲーム機を引っ張り出して、打ち興じる日々人と今日子。
どんどん二人は接近していく。
父でさえも、夕食までには帰宅して、今日子と楽しそうに、だが敬語で話している。
母が亡くなって以来、失われていた団らん。

二人は、父の言いつけを無視して、希望する今日子を外に連れ出す。
今日子は、自分の過去を知りたがっていたのだ。

だが、その過去には、恐るべき秘密が潜んでいた…。

と、途中からちょっとミステリータッチになるのだけれど、
そこはライべ、さほど深刻にも重たくもなく、話は進んでいく。
最後も、決してハッピーエンドとはいえないのだけれど。

こういう小説が売れるのね。
集英社文庫では、2017年ノベル大賞募集ですって。
現代っ子の風俗をあまりに知らなさすぎて、とても応募するような作品はかけないわね。










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高田郁のできるまで [本のはなし]

先週末は松江へ。日本集団精神療法学会の研修会。
すでに何度も訪れているが、まだまだ見どころは満載のようだ。
今回のハイライトは、「松江フォーゲルパーク」と震度4の鳥取地震。
それに帰りの飛行機が、羽田で鳥にぶつかって2時間半ちかくの遅れ。
何十年も飛行機に乗っているが、こんなのは初めて。
同時に、大阪伊丹からの便も鳥が衝突して途中で引き返した。
渡りの季節とはいえ、やっぱり地震で地磁気がおかしくなっているのでは?
それにしても、”鳥づくし”の旅だった。

ところで、今回のおすすめブックは、高田郁著『晴れ ときどき涙雨』(幻冬舎文庫)。

平成17年4月から同21年9月までに創美社発行の女性漫画誌『オフィスユー』に連載されたエッセイにその後のコメントを入れたもの。

『みをつくし』シリーズで名高い作者の実像が、いろいろと知れて面白い。
なんといっても、高田郁という時代小説作家が、もともと「川富士立夏」という漫画原作者だったとは・・・。それも15年も。
けっこう、女性作家には漫画とのつながりが強いということを改めて認識。
この本は、「漫画原作者・川富士立夏」が「時代小説作家・高田郁」になるまでを綴ったもの。

そもそも漫画原作者というものがどのような職業なのかがまったくわからなかったが、
絵をかかないだけで、ストーリーを創り出すために
綿密な取材と場面構成を考える頭がなくてはならないということらしい。

この取材も、単に資料を読み込むだけでなく、現場に行って情景を見、人と会って証言を引き出さなければならない。
まるで文化人類学者の仕事だ。

ところで、高田郁さん、漫画原作者になるまでは、中央大学法学部を出て司法試験に何度も挑戦しては失敗していたというから驚きだ。
後に倒産する学習塾の講師などもやっていたという。
司法試験の結果を聞くたびに「あかんたれやなあ」と落胆する父を見かねて、たまたま「オフィスユー」主催の漫画原作大賞に初めて応募して、特別賞を受賞したのが、漫画原作者への第1歩になった。
それも、まったく原作の書き方など、習ったこともなかったのに。
今では、漫画原作者になるにもシナリオ学校で学ぶらしい。

出身は、兵庫県宝塚市。
つまり、あの阪神淡路大震災で被災しているのだ。
短いエッセイのそこここに、阪神淡路大震災が顔を出す。
震災のために長年借金を抱え、同時に、家では父親が17,8回も入院し、10回以上手術をしていた。
そんな背景があるせいか、彼女の取材対象はたいてい夜間中学に通う在日1世のハルモニや、70代半ばにして朝7時から夜10時まで地域医療にはげむ老医師など、市井の人々。
取材する側の構えにも、敏感だ。

また、中学一年生のときには、女性の体育教師から
「このクラスで一番気に食わんのはお前や」と名指しされたときから、いじめが始まり、
2学期の始業式のときに男子生徒から暴力を受けて、肋骨骨折と内臓損傷で入院といった試練を体験している。
しかもよくあるように、いじめの事実を誰にも言わず抱え込み、学校も「事故」として処理した。
そんな経験をして、すべてが嫌で嫌でたまらなかったのに「死」の誘惑に取りつかれなかったのは、入院した小児病棟で、子どもに先立たれた親が嘆き悲しむ声を聴いたからだという。

しかし、その女性教師の言葉は「私は人から嫌われる人間なのだ」という自己否定の種となって、成人してからも、心を縛っていた。
だが、数年前にその女性教師が無銭飲食と飲酒運転で逮捕されたという新聞記事を見て、
「こんな人間のために今まで・・・・・・」と、呪いの鎖のようなものが、音を立ててはじけ飛んだという。

そもそも漫画の原作を書きながら、いつか時代小説を書きたいと、独学で時代考証を学んでいた高田さんが実際に時代小説を書くことになったのは、両眼の網膜に孔があくということがあり、このままでは大きな心残りになると思ったことがきっかけだという。

こうした数々の経験や、交通事故で九死に一生を得たものの、中心性脊髄損傷で握力を失うというような体験が、あの繰り返し災難が降りかかっても、前に向かって進んでいく「澪」につながるのだ。
まさに「艱難辛苦、汝を玉にす」である。

この本のなかに、「ふるさと銀河線」というエッセイがあった。
北海道の北見から池田までを結ぶ第3セクターの鉄道。
その鉄道を知ったのは、漫画の原作を書いたことがきっかけだった。
その後、いろいろなことに行き詰って仕事を辞めようと思った際に、思い立って北海道に飛んだ。

銀河線の小さな車両に揺られ、一時間半ほどで、陸別に着く。

というところで、私は思わず、「あっ」と小さく叫んだ。
あの『あい』の舞台となった陸別だ。
すっかり「みをつくし」の作者という頭で読んでいて、『あい』のことはすっ飛んでいた。

このとき、陸別の知り合いの家の本棚に彼女の作品が掲載されている雑誌が何冊も並んでいたのを見て、彼女は仕事を続けることができたらしい。
銀河線は廃止されてしまったのだが。

漫画原作を書くために陸別に何度も足を運ぶうちに、いつか書きたいというある物語が生まれた。
それが『あい』だったのだ。

大河小説の陰に、作者自身の物語があることを知ると、物語にまた別のあじわいがでてくるような気がする。

おまけ

この中に「差し入れ屋」というエッセイがあった。
刑務所の前にある雑貨屋のような店で、受刑者に差し入れするためのものを売っている店だ。
私も、60年代の終わりの学生運動で逮捕・収監された友人に差し入れをするために、府中刑務所や小菅の東京拘置所などに通ったことを思い出した。
やっぱり差し入れ屋でメリヤスの下着を買って、本と一緒に差し入れたものだった。
私の人生もけっこうおもしろいもんだ。






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東日本大震災後の人知れぬ救援活動 [本のはなし]

FaceBookをやっていると、世の中、動物好きの人たちがいかに多いかがわかる。
私の周辺にも犬好き、猫好きが多い。

本屋でこの人も犬好きだったのかという本を見つけた。
それも単なる犬好きではない。
身を挺して犬や猫を救出しようとする活動をみずから取材して書かれた本だ。
それも、著者はあの森絵都さん。
『おいで、一緒に行こう』(文春文庫)

文庫で出たのは1年前。
単行本が出たのは2012年3月だから、震災から1年目だ。
このドキュメントが始まるのは2011年5月28日だから、震災からわずか2か月余のこと。
まだ、津波被害も原発事故による放射能汚染の問題も生々しい、危機的な時期である。

絵都さんはご主人と一緒に車で都内の自宅から南相馬市に向かう。
車のトランクには「ペットレスキュー用品」を山のように詰めて。
同行するのは文芸春秋社の編集者とカメラマン、週刊文春の記者それぞれ1名。
目的は、原発事故の後の警戒区域に取り残されているペットの救援活動の取材。
知らなかったが、絵都さんはそれより数年前に、犬の保護問題をあつかったノンフィクション本を上梓していたのだという。ずっと気にかけていたのだ。

当時、いち早く取り残されたペットの救援に乗り出した動物愛護家たちがブログやツイッターでいろいろとその状況を報告し、発信していたらしい。参照:http://tohoku-dogcat-rescue.com/
そのなかの一人、中山ありこさんという福井在住の40代の女性と知り合い、彼女の現地でのレスキュー活動に同行し、記事にすることになったのだ。

震災後の恐ろしい道路事情や被災地の様子については、救援に向かった日赤関係者の話をいろいろと聞いていたが、そこにわざわざ入っていき、飼い主も家もエサも失った動物たちをレスキューしようと考える人がいるとは、想像だにしなかった。

しかも、立ち入り禁止区域ともなれば、見つかれば逮捕されてしまう。
警察に見つからぬよう、まるで犯罪者のように活動しなければならないのだ。
それも、夜を徹して姿を求めて探しまわったり、保護用のケージに入ってくるのを待ったり。

見つけて保護したとしても、ペットたちはけがをしていたり、病気だったりしてその手当が必要になる。里親も探さなければならない。
わざわざ福井から定期的に被災地に出かけてこの活動をしているありこさんのブログは今も活動中。
http://blog.livedoor.jp/ariko602/archives/2016-10.html 
http://ameblo.jp/ariko602/
FaceBookは、こちら。https://www.facebook.com/ariko.nakayama?fref=ts

家に置いてきた犬や猫を何か月も警戒区域に入って探し求める人。
保護された犬や猫の里親になる人。
みんなほんとうに動物好きの人たちなんだなと思う。
ペットを飼ったこともなく、さほど飼いたいとも思わない私でさえ、保護された犬や猫の様子を知ると、涙が出てくる。
レスキュー活動中の写真や、その後の保護犬たちの様子を描いたイラストなども。

それに対して、動物たちについては知らんぷり、保護活動をする人たちを取り締まる警察や行政は、ほんとに何をやっているのだと、怒りがわいてくる。
やんばるの海でいま起こっていることも、同じなんだな。
貴重な自然や動物を守ろうといくら呼びかけたって、為政者たちは痛くもかゆくもないわけだ。
沖縄の人さえも、大事には思っていないのだろう。
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おすすめでない本の話 [本のはなし]

週1回のアップに、文字通りアップアップしています。
おすすめブックスも、毎回、いい本に当たるわけではないので。
今回は、仕方がないので、おすすめでない本の話をすることにしました。
もちろん、これは私個人の趣味の問題ですので、どうぞ興味がある方はお手に取ってお読みください。

はじめて読んだ作家(のはず)です。なにせ最近記憶が定かでなく…。
中村文則著『去年の冬、きみと別れ』(幻冬舎文庫)です。
そもそもなぜ、この本を購入したのか…我ながら謎です。

帯にある「予測不能のミステリー。話題のベストセラー、ついに文庫化!」というのに惹かれたのか。裏表紙にも「話題騒然のベストセラー」とあり…。
著者紹介には、デビュー作で新潮新人賞をとり、野間新人賞、芥川賞、大江健三郎賞と、華麗なる受賞歴が。2014年には日本人で初めて米文学賞、デイビッド・グディス賞を受賞とある。
これで読もうと思ったのか…。全然記憶なし。
薄い本なので、旅のお供に買ったのかもしれない。

ロマンチックなタイトルから、切ない恋愛がらみのミステリーかと思いきや、
とんでもなくグロテスクな物語で、男女は登場するのだけれど、
恋愛というにはあまりにも病的で…。

すでに2人の女を焼き殺したとして逮捕され、刑に服している男がいて、
その男にインタビューしにいく若い作家がいる。
男にはミステリアスな、というかボーダーラインチックな姉がいて、
その姉にたぶらかされたという弁護士やら、
生きた人間そのものにしかみえない人形を作る男が登場し…。
そして、インタビューを企画した編集者がいる。

ま、大体登場するのはこれくらいなのだが、とにかく全員、共感しようにも観念的すぎ、関係も入り組んでいて、筋を追うので精いっぱい。
すべてが頭の中で構想された物語。
だれが犯人なのか、だれが被害者なのか、
そもそも果たして殺人事件はあったのか…。
゛予測不能のミステリー”って面白くもなんともないのだな。

読み終わっても、物語として像をむすばない物語。

こういうのが最近は受けるのだろうか。
ロジックを楽しむ人にはいいのか。
それが海外で評価されたのだろうか。

わたしからすると、なんだかお金と時間を無駄にした感じ。

「おすすめでない本」で、今回はすみません。
別の楽しみ方があるんだったら、教えてほしい。

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進化する時代小説 [本のはなし]

進化する時代小説、なんてタイトルをつけてみたが、それではまるで時代小説をたくさん読んでいる評論家みたいで気が引けるが・・・。

それでも、山本周五郎や池波正太郎、藤沢周平と、好きな作家の本はずいぶん読んだから、許していただこう。それに、前回紹介した高田郁さんやあさのあつこさんなど、最近の女性作家の書く時代小説も好きだし。
さん付けにしたり、しなかったりは、身近さの違いかな?

それにしても、テレビでは時代劇というジャンルが、NHKの大河ドラマを除いて、ほとんど消えかかっているのに、小説だけは時代物が大流行りなのはどうしてなんだろう。

そして、今日、紹介するのは、朝井まかてさんの『恋歌』(講談社文庫)。
2014年の直木賞受賞作だ。
その時はあまり関心をもたず、朝井まかてという変わった名前の作家が、果たして女性なのか男性なのかも知らなかった。
今回、本屋で偶然この本を手に取って、著者紹介に「甲南女子大学卒業」と書いてあるのを読んで、ああ女性なんだとわかったという次第。

それに甲南女子大学は、ついこないだ呼ばれていったばかりだし…。
樋口一葉が出てくるし…。樋口一葉は今私が住んでいるあたりで生きていたし…。
というわけで、読むことにした。

で、進化する時代小説というわけは、一つはこの小説が、現代小説によくある入れ子構造になっているところ。しかも、現代を舞台とした物語の中に、世紀を超えて過去の物語が挿入される形式はよくあるが、これは明治後期を舞台とした物語の中に、それから数十年前の江戸末期から明治の初めにかけての物語が挿入されている。つまり、過去のなかに大過去が入れ込まれているわけ。

序章は、明治時代の女流小説家の嚆矢、三宅花圃(かほ)が書斎で万年筆で小説を書いている場面から始まる。

花圃が通っていた歌塾「萩の舎(はぎのや)」には、伊藤夏子と樋口夏子という2人の夏子がいたので、イ夏、ヒ夏と呼びわけていた。ヒ夏こそ、のちの樋口一葉である。
しばし、そのヒ夏の消息が語られる。
そこへ使いが来て、花圃らが「師の君」と呼ぶ歌人、中島歌子が入院したという連絡が入る。
遥か千年の昔から受け継がれてきた「やまとうた」の潮流は、維新後30年を経たことから急に変わった。ことに、与謝野晶子が登場してからは、その流れは決定的なものとなった。
己が心をより直截に大胆に歌うものほど、称賛されるようになった今、かつては一世を風靡した師の君の時代ではなくなってきていたのだ。
その師の君から、花圃はお見舞い品の分配や礼状の代筆のついでに、書類の整理を頼まれる。
蒔絵で萩が描かれた文箱のなかに、分厚い半紙の束があった。和歌の類ではない。
師はいつ、何のためにこれを書いたのか。
やがて花圃は我を忘れて読み始めていた…。

そして第1章。
17歳の登世が母親につれられて、お見合いをしにいやいや浅草の市村座の芝居見物に出かけるところである。
ここからは、登世が「私」と一人称で語る。現代風の言文一致の文体である。
しっかり者の母は、水戸藩のご定宿をつとめる池田屋の女主人。
時は安政7(1860)年。幕府がアメリカと通商条約を結ぶ2年後のことだ。
尊王攘夷の急先鋒であった水戸藩は、徳川の御三家であったにもかかわらず、大老井伊直弼の安政の大獄により、藩主は蟄居を命じられ、藩内には不満が渦巻き、天狗党と諸生党と真っ二つに割れていた。
その水戸藩の若き藩士、林忠左衛門以徳(もちのり)に登世が一目ぼれしてしまったのだ。
そんなとき、水戸藩士による井伊大老の暗殺事件が起こる、世にいう桜田門外の変である。
それに加担した以徳は、逃げ延び、登世のもとに姿を現す。
やがて登世は、母を説き伏せ、以徳のもとに嫁ぐ決心をする。そして、子どもの頃から仕えてくれた爺やとともに、以徳の待つ水戸をめざす。

その後は、水戸藩の血で血を洗う内紛と、尊王攘夷か開国かをめぐって変転する薩長の動きのなかで、翻弄される登世。
登世がその目で見、そして語る、残酷な場面の数々は、あまり知られることのない、日本の歴史における暗部。ナチスドイツどころではない残酷さ。
その中で、人としての心をたもつよすがとなったのが、歌なのである。

江戸から明治にかけての激動の時代の人々の生きざま、とくに男と女の愛を描いている点では、偶然にも前に紹介した高田郁さんの『あい』とも通じるものがある。
しかし、こうした歴史を経て現代の日本が出来上がってきたということを、今の日本人はあまりに知らなさすぎると思う。

ところで、「進化する時代小説」という感想をもったのは、主人公が「私」で語ること、すなわち自我をもっていることに気づいたからなのである。
明治以降の言文一致というのも、まさにそういうことだったのでしょうね。
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