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マンケル・ヘニング『流砂』が伝えようとしていること [本のはなし]

2年前の2015年10月5日、北欧ミステリー「刑事ヴァランダー」シリーズの作家として有名なヘニング・マンケルが亡くなった。

 彼と彼の作品については、このブログでも何度も紹介しているが、ミステリーだけでなく、児童文学でもスウェーデンのアストリッド・リンドグレーン記念文学賞を受賞する一方で、長年アフリカに通って劇場を運営するなど、世界で幅広く活躍していた。67歳の若さでこの世を去るのは、本人にとってもさぞや無念だっただろう。

『流砂』(東京創元社)は、彼がある日突然、回復不可能な末期がんと知ってからの葛藤の日々の想いを、彼が出会ったさまざまな絵画に投影しながら綴ったエッセイ集である。
1年前に出版されてすぐ読んだのだが、なかなかブログに載せられないでいた。
内容があまりに濃く、重く、いろいろ考えさせられることがあったからである。

彼はそれより2年前の雪の日に遭遇した自動車事故がすべての始まりだと思っている。
その時は何でもなく、病院にも行かなかったのだが、その後、首が痛むようになり、事故の後遺症を疑って受診した病院で、自分にはもう時間がないことを知らされたのだった。

それ以来、彼は子ども時代のことをよく思い出すようになった。
そのとき彼は、「自分の身に起きた大惨事をどう受け止めたらいいのか、その答えを知ろうと記憶が必死にもがいているのだ」ということに、気付けなかったと書いている。

彼が思い出したのは、学校に一人で向かったある寒い朝のことである。9歳だった。

その日の朝、夢を見た。彼は薄い氷の張った川べりに立っていた。
その川では数日前に足を滑らせた男の子がおぼれて行方不明になっていた。
子ども心に死を意識したとき、と言えるだろう。
だが、夢の中で彼は、自分がおぼれないという確信があって、怖くはなかったという。
彼は同時に、村民館でよく上映された映画のことを思い出す。彼は映画好きで、子ども禁止の映画の時には忍び込んでみていたという。

そのとき彼は、突然思いがけない言葉が頭に浮かび、その場に凍り付いたように立ち尽くした。その言葉は、その後の人生に鮮明な記憶として残る瞬間だった。
「ぼくはぼくなんだ。ほかのだれでもない。ぼくはぼくだ」
私はその瞬間にアイデンティティを得た、と彼は記す。

ちなみに、9歳という年齢は、河合隼雄も子どもから大人になる重要な年齢だと言っている。
ヘニングは、8,9歳の頃、自分はどんな死に方が一番怖いだろうと真剣に考えたという。
彼がいちばん恐れたのは、湖や川の氷の上に立っているとき、突然氷が割れた小売りの下に引きずり込まれてしまい、明るい日の光が見える氷のすぐ下でおぼれることだったという。
誰にも助けてもらえないパニック。

その次に恐れたのが、本書のタイトルでもある「流砂」である。
砂漠の砂の中に引っ張り込まれ、砂に飲まれて窒息してしまう人食い砂。
彼は泣きもせず、叫びもせず、ただ、がんという流砂に引きずりこまれ、飲み込まれまいとして、ほとんど眠れないまま、10日間が経った。
そして、とうとう砂から這い上がり、事実に向き合い始める。

彼は、がんと知ったとき、突然人生が小さくなったようだったと書いているのだが、
それと相反するように、思考はどんどん拡大し、時空を超えていく。

例えば、フィンランドで、国土の母岩を深く掘り下げて、トンネルと地下室を創り、そこに原子力初天書から出る放射性廃棄物を遠い未来まで埋蔵するというニュースに、彼は放射性物質の毒性がなくなるまで、十万年、人の世代に換算すると三千世代の未来までそこに埋めておくということに思いを馳せる。

彼はそこを見学させてほしいと手紙を書くが、断られる。
1度目はその現場を犯罪小説のネタに使ってほしくないという理由で。
2度目は、見学者の安全が保障できないからという理由で。
それで、自分たちが生きてもいない十万年も先が、どうして安全といえるのか?

彼は自分の恐れを探っていく。
彼は、暗闇を恐れ、一人で寝るときは電灯を何個かつけたまま眠る。
その原因は明らかだった。
川岸に立っていた夢を見た翌年、ある晩、彼は何者かの弱々しい声で眠りから呼び覚まされる。目覚めて真っ暗闇の中で、彼はそれが父の声だと悟る。
明かりを点けてみると、父が吐いた血にまみれて倒れていた。脳出血だった。

母は彼が生まれてすぐ、彼を捨てて家を出て行った。
幸いにもその時父は生き延びたのだが、彼の頭に浮かんだのは、「父にも捨てられる」という思いと恐怖だった。
その瞬間から、暗闇の中には思いがけない恐怖があるという思いが、彼の心の中に根を下ろしてしまったのである。
彼が10代も早くから、家を出て、終生世界を住処として活動し続けたこと、とりわけアフリカへの深い愛の背景には、こうした幼い頃の傷つきからくる、孤独と恐怖があったといえるのだろう。

さて、長くなってしまった。
『流砂』は、これからも彼の生きた日々のエピソードを振り返りつつ、自分自身を見つめる作業と、人類の過去と遥かな未来とを行き来しつつ、彼の思索を辿っていく。

そうして彼は自らの恐怖を受け入れ、和解していく(これも直線状ではないが)と同時に、残していく人類に真剣な警告を発して止まないのだ。

未来に責任をもつこと。

彼が、後に残された私たちに痛切な思いを込めて訴えているのは、これである。
すべての人が真摯に受け止めるべき警告である。

それにしても、もう彼の新作を読むことができないのは、ほんとうに悲しく寂しい。

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岩波書店初の直木賞! [本のはなし]

芥川賞と直木賞が発表された。

とくに直木賞が岩波書店から出版された佐藤正午さんの『月の満ち欠け』に授与されたことは、岩波書店初の直木賞受賞作として、話題となった。
また、佐藤さん自身もかなりのキャリアをもつ作家であり、今更という感があるという。

私はこれまで彼の作品をまったく読んだことがなく、たまたま本屋で「直木賞候補に」という帯を見て、ふと読む気になって購入したのだった。

『月の満ち欠け』というタイトルが、森絵都さんの『みかづき』に似ていたこともあったかもしれない。

死者の蘇り、いわば輪廻転生のようなことがテーマとは、はっきりわかっていなかったのだが、母が亡くなったことも、どこかで影響していたのかもしれない。

帯に「久々の一気読み!」とあったのだが、本を読むのはベッドに入って寝るまでのせいぜい数十分なので、「一気読み」とはいかなかった。

で、とにかく輪廻転生だから、時代を超えて、何人もが登場し、その人ごとに人間関係があるので、とびとびに読んでいると、この人誰だっけということがしばしばあって、最後に最初のほうを読み直すことになった。

しかも、蘇るごとに新たな物語になるのではなく、関係がつながっているので、余計ややこしい。この物語を理解するには、一気読みするしかない。

それに、せっかくの受賞作をけなすようなことばかりいうようで悪いが、
女性が何度も蘇るとしたら、相手に相当な魅力がないといけないと思うのだが、
登場人物の男性にそれほど魅力を感じられなかったし、その動機も、愛情というより、執着といったほうがよいような感じで、なんでこの人のもとにまた戻ってくる必然性があるのか、ピンとこなかった。
とくに幼女が大人の男性に執着するのは、気持ち悪い。
小説の中でも誘拐犯に間違われたりしているが。
間違われちゃって気の毒というより、この女の子の気味悪さのほうが勝る。
蘇るのに事欠いて、なぜにこんな子供にする必要があったのだろう。



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読み直し?記憶が・・・ [本のはなし]

前々回のブログで,あさのあつこさんの弥勒シリーズ『冬天の昴(とうてんのすばる)』(光文社文庫)を紹介した。
その際、前作『東雲の途』のことにも触れたのだが、どうもこれを読んだかどうかがあいまいで、読んだならブログに書いているだろうと思い検索してみたら、載っていなかった。

それで、改めて光文社文庫の『東雲の途』を買って読んでみた。
なにしろ、面白そうだと思って買って読んだ本が、すでに以前読んだことのある本だと途中で気づくなんてことがままあるので、恐る恐る読み進んだ。
読んだことがあるような、ないような…で読み進み、結局、最後に読まなかったようだという結論に到達。(でも、すっきりしない・・・。まさか認知症が進んだなんて?)

この巻は、橋の下で見つかった死体の腹の中から瑠璃が見つかるという、異様な事件をきっかけに、遠野屋清之介が西の生国に帰って過去の因縁を清算しようとする、という話である。
その旅に、岡っ引きの伊佐治が同行する。

なので、このシリーズの面白いところでもある、遠野屋清之介と小暮信次郎のからみ(探り合い)は最初のほうにあるだけで、途中からは信次郎も姿を見せず、瑠璃をめぐる謎解きと追手との果し合いのサスペンスが中心となる。
その分、このシリーズの特徴でもある人情話としての面白味も、若干薄い。
(だから、読んだ記憶がないのだろうか)

裏表紙には「著者がシリーズ史上ないほど壮大なスケールで描く「生と死」」と書かれてあるが…。清之介がなぜ生国に戻ろうとしたのか、瑠璃にはどのような秘密が隠されているのか。
やがて、山奥に埋もれたおどろくべき歴史の真実が明らかになっていく…。
「壮大なスケール」かどうかは・・・?
ただ、このシリーズでたびたび侍を捨て、商人となった遠野屋が、社会の在り方、とくに商業や経済というものの意味について独自の考えを語るところは、高田郁の「あきない世傳」シリーズとも共通していて、ちょっと現代社会の批判になっているのかなと思う。


それに、この巻には『冬天の昴』に登場する同心小暮信次郎の女、品川の宿「上総屋」の女将「お仙」や、小間物問屋遠野屋で清之介の片腕となっている「おうの」らが登場し、過去の経緯が語られており、武家の次男として生まれた清之介がどうして江戸の小間物商となったのか、小暮信次郎が怪しんで執拗に探ろうとしている清之介の過去の因縁がどんなものだったのかも説明されている。

というわけで、後から読んでもそれはそれでなるほどという読み方ができて、それはそれで面白かった。

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心理劇を楽しむ時代小説 [本のはなし]

あさのあつこさんの『冬天の昴(とうてんのすばる)』(光文社文庫)。

北町奉行所定町廻り同心、小暮信次郎と小間物屋「遠野屋」を営む清之介、それに信次郎に仕える岡っ引きの伊佐治の3人の駆け引きが面白い「弥勒」シリーズの第5弾である。
実は第6弾の『花を吞む』がハードカバーで今年1月に出ているらしく、早く読みたいのだが、ほかにも読む予定の本が山になっているので、文庫になるのを待とう。

あさのあつこさんは、やっぱりうまい。
文章にリズムと流れがあって、なんだか浄瑠璃を聴いているような気分になる。
あるいはテレビの時代劇のナレーションを聴いているようにも。

物語は品川宿の旅籠『上総屋』の女将お仙の数奇な運命から始まる。
御家人だった夫が、女郎宿で遊女と心中事件を起こし、骸となって自宅に運び込まれたのだ。
実直で小心な夫が、そんな大胆な行動に出るとは考えられなかったが、その汚名を濯ぐこともかなわず、家は取り潰され、姑も「恨みを晴らしてくれ」と言い残して、井戸に身を投げて果てた。

その後、流れ流れて上総屋の女将になったお仙。そこに通ってくるのが、小暮信次郎その人である。例によって孤独を抱えて、どこまでもクールな信次郎。女泣かせなんだなあ…。

あるとき、小暮信次郎の同僚で本勤並(ほんづとめなみ)になったばかりの赤田哉次郎が女郎と心中するという事件が起きる。
お仙の夫と同じように、およそ心中などを起こしそうもない、若く実直な人物だった。
裏に邪悪な匂いを嗅ぎつける信次郎。

一方、遠野屋清之介の過去にただならぬものがあるとかねてより疑っている信次郎は、足しげく遠野屋に通い、まるで真剣で切り結ぶようなやり取りを繰り返している。それを楽しんでもいるようである。それを脇で見ている岡っ引きの伊佐治はそんな信次郎に呆れている。

信次郎はお仙に、夫の心中事件を探ってみるように言う一方で、清之介にお仙の用心棒を頼む。清之介はその意図を知りたがるが、信次郎はなかなか明かさない。

一方、遠野屋の表座敷では、小間物に加えて反物や帯、足袋などの商人と合同で売る催しが女客の人気を呼んでいた。その客の一人、材木商『伊勢屋』の内儀、お登世の様子がおかしい。どうやら清之介目当てに来ているようだ。
もともと伊勢屋の一人娘で、婿を取ったのだが、どうやら男狂いの気があるらしい。その様子が尋常ではなくなってきた…。

あさのあつこさんの小説の魅力は、登場人物の心の機微が細やかに語られるところである。
たいてい、主人公はどちらかといえば発達障害的な、人の気持ちに無頓着で、人間関係が一方的になりがちなタイプで、時代劇の人情話にはまるで向かないタイプだ。
小暮信次郎もそうだが、遠野屋清之介もかつてはそのような人間だった。遠野屋の娘おりんと出会って、生き直すことにするまでは。
それを人情でつなぎとめているのが、岡っ引きの伊佐治ということになるか。

伊勢屋の内儀、お登世は言ってみれば、ボーダーラインの患者。
このお登世が、すっかり狂乱して遠野屋に現れたとき、清之介の片腕として遠野屋の商いを盛り立てている「おうの」がお登世を落ち着かせるのだが、このお登世をめぐるやりとりが、まるで精神療法の物語みたいになっているのである。
ま、物語だから、そんなにうまくいくものか、とは思うけどね。

最後はすべての物語が一つに収斂していく。見事である。

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意外な作家の闘病記 [本のはなし]

このところ、身の回りに予期せぬ出来事が相次ぎ、とくにこの1週間はあたふたしているうちに時間が過ぎてしまった。
朝も6時台に目が覚めて、なんだかボーっとしている。
しばらくはまだ落ち着かない日々が続きそうだ。

  ☆ ☆ ☆

先月小倉に行ったときに知った郷土の作家たちの作品を一人ずつ読んでいるところで、今日紹介するのは、加納朋子さんの『無菌病棟より愛をこめて』(文春文庫)。
『ななつのこ』や『七人の敵がいる』など、好きな作家のひとりである。

『無菌病棟』は、その加納さんが、なんと『七人の敵がいる』を書いた直後に急性白血病を発症した、その闘病記なのである。
そんな大変な体験をしていたなんて全く知らなかったので、書店でこの本を見つけたときはびっくりしてしまった。

この本で、夫も同業者だとあって、調べてみたらなんと、推理作家の貫井徳郎だった。これまたびっくり。
売れっ子作家同士で結婚して子どもまでいて、二人ともたくさんの作品を次々に発表しているなんて、すごい。
そこに急性白血病だなんて。しかも、厄介なタイプのものだったらしい。

だが、なにしろ、作家である。
たとえ重篤な病気であっても、興味津々、しっかり観察し、情報を集め、書いてやろうと意気盛んである。ちゃっかりと主治医に将来の取材の約束まで取り付けている。
それだけではない。患者としてうろたえる姿も、放射線治療や化学療法の苦痛にあえぐ場面も、リアルにとらえて描写している。
(巻末に、彼女に骨髄移植をした弟の詳細な体験レポートも載っている。)

それは、作家としての性というだけではない。自分の体験を伝えることで、同じような苦しみや恐怖を体験している人の助けになればという気持ちなのだ。
彼女自身、無菌病棟に入院して出会った患者同士のコミュニケーションにたいへん助けられた経験があるからだ。
実際、私の身近にも癌と告知され、これから入院・手術を待っている人がいるので、事細かに入院に必要な物品、不要な物品などを書いてくれているのはありがたいことだった。

その一方で、かつて40歳そこそこで急性白血病で逝った友人のことを思い出し、ああ、こんなことを知っていればやってあげたのに、なんで何もしてやらなかったんだろうと、後悔の念も湧いた。

加納さんは、もともとポジティブ志向の人なのだろう。苦しい治療に耐える(病気に耐えるのではなく、というのが、こうした悪性新生物の厄介なところだ)ために、入院中も歩いたり、階段昇降や腕立て伏せを繰り返したりして体力を維持しようとする。
また、体力と体重を維持するために、治療の副作用で味覚異常が起きて食欲がなくても、吐いても食べられそうな食品を探しては無理にも食べようとしたり、呆れられるほどの頑張りようなのだ。
彼女は、そうした頑張りのおかげで、回復したと信じているのだが、読者(たぶん患者の家族だろう)から、頑張っても駄目だった人もいる、そういう人は頑張りが足りなかったというふうにとれる書き方はひどいとお叱りの手紙をもらったそうだ。

それにしても、治療の過酷さはすさまじい。癌細胞をやっつけるために、致死量の薬を投与されるなんて、想像を絶する。

彼女の場合、骨髄のすべてが完璧にマッチし、さらに若く体格もよい弟からの骨髄移植が可能であったという幸運もあった。
夫や義母、父や姉妹の熱心な協力も万全であった。
さらに言えば、高額な治療費や部屋代を払える経済力もあった。これは夫が貫井徳郎と知れば、そのくらいは出せるだろうなと納得するが、知らなかったときは、どうするんだろうと他人事ながら心配になった。それくらいかかるのだ。

さらに治療が功を奏して寛解状態になったとはいえ、100%健康になったとはいえないようである。

この本を読んだおかげで、たまたま郵便局の人が勧誘に来たので、さっそくがん保険に入った。女性特約付き。
我ながら、影響されやすい・・・。

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あきない世傳 金と銀 波乱万丈の奔流編 [本のはなし]

ある雑誌の星占いにこんなことが書いてあった。ちなみに星座は山羊座。

 現在、あなたの人生で何かが停滞しています。完成直前だったあなたの「巣」が、作りかけのまま放置されているか、度重なる嵐のダメージによって、見るも無残な状態になっているのかも−−? 

 ドッキリである。たしかに停滞感はある。オフィスを開設して2年経つが、自宅でパソコンに向かって仕事していることのほうが多く、活用されているとはたしかに言い難いし…。
続いてこんなことが・・・

 4/8~4/14の間は、あなたの住まいや家族関係、専門分野について、大きな動きがあるでしょう。・・・5/19頃、そろそろ覚悟を決めなければならないようですよ! だって。

 なんの覚悟だろう…。

 で、今日のおすすめブックは、停滞することのない、女の物語。
 おなじみ、高田郁の『あきない世傳 金と銀』の第3巻「奔流編」が出た。

 幼くして父と兄を失った幸は、実家を遠く離れ、女衆として大坂天満の呉服商「五鈴屋」に入る。やがてその聡明さを買われて、父が嫌った商人の嫁となる。店主、四代目徳兵衛の後添いになったのである。だが、夫は不慮の事故であっけなく死亡、17歳にして寡婦となってしまう。
ところが、四代目の弟、惣次が幸を娶ることを条件に五代目徳兵衛を継ぐと宣言する…。これが前巻までのあらすじ。
 無能な四代目とは異なり、惣次は商売には熱心ではあるものの、雇い人の扱いが酷く、人間的な面で受け入れ難いところがあるのだ。
 だが、幸の脳裏にかつての五鈴屋の番頭、治兵衛の、「今は、商い戦国時代」「お前はんは戦国武将になれる器だすのや」という言葉が蘇る。商いの戦国武将になってやろうと決心する幸。

惣次は言う。「私には商いしか生きる道はない、と思うてる。商いでは誰にも負けとうはない。そのためには今のままではあかんのだす」「あんたを嫁にしたら、もっと強うなれるやろ」

一緒になってからは、惣次は幸を慈しみ、一層、商いに励むようになる。やがて江戸に店をだすという計画を明かす惣次。そのためには資金を蓄えなければならない。
惣次は母の反対にも耳を貸さず、取り立てのやり方を変え、番頭から丁稚まで一人一人に売上のノルマを科す。皆が言われたことをやるのではなく、自分の頭を使って売上を伸ばす工夫をしろというのである。
 その一方で、生糸の産地として名高い近江に目をつけ、絹織の生産を勧めるべく、みずから近江に出向いていく。

ところで、最近、朝日新聞に滋賀県長浜で相撲のまわしが織られているという記事が載っていた。この強い絹織物こそ、この物語に出てくる絹織なのだ。
 
 幸は、自分なりに店に貢献できることはないかと考え、新しい宣伝の方法を次々と考え出す。それは人気を呼び、五鈴屋は広くその名を知られるようになる。一方で、それが自分の手柄ではなく、惣次のおかげと振舞う幸。惣次は自分が幸を守る。幸は自分の影に隠れていれば良いと考えていることを知っているからだ。商いの戦国武将となると決意した幸と惣次との間に広がっていく間隙。

 それは、惣次が近江の村との商いの中でとった信義にもとるやり方が明るみに出たときに、決定的なものとなる。幸に手を挙げる惣次。どうなる幸…。

 相変わらず、波乱万丈の物語は続いていく…。

 たしかに幸の生活と比べれば、私の生活は停滞していると言わざるを得ない。ふ〜む。5/19までに何か考えなければいけないか。

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刑務所サービス? [本のはなし]

先日の福祉関係者の集まりで、福祉をサービスと呼ぶのは抵抗があると語った人がいた。

たしかに「サービス」というと、何かおまけでつけてくれるもの、というイメージがあり、「サービス品」というのは安く特別に提供しているもの、したがって安物という感じがある。

医療サービス、福祉サービスといった言葉を初めて耳にしたときは、たしかに違和感があったが、その後「患者様」などというヘンテコな呼称がまかり通るようになって、ますます医療はサービス業なのだという意識が定着したように思う。

しかし、オブホルツァ―他著『組織のストレスとコンサルテーション―対人援助サービスと職場の無意識』(金剛出版)という本を翻訳した時、「警察サービス」とか「刑務所サービス」という用語を見て、そこまでサービスと言うのかと、さすがに驚いた。

もともと英語では、人が行う人相手の仕事はすべて、「ヒューマンサービス」という。
辞書でサービスserviceを引くと、「公益事業」「官公庁業務」その「部局」などが最初にあがっている。
ほかにも「兵役」とか「軍」を指して、サービスという。
もちろん、いわゆる教会での「ミサ」、「集会礼拝」などもサービスだ。
「奉仕」という意味もある。
ちなみに「サービス品」を、日本では「奉仕品」とも言ってたっけ。
テニスやバレーボールの「サーブ」も同じだ。
そのほか、辞書にはサービスの多様な意味が山のように出てくる。

ところで。
今日紹介する本は、アン・ウォームズリー著『プリズン・ブック・クラブ』(紀伊国屋書店)。
著者はジャーナリストで、副題に「コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」とあるように、彼女が211年から2012年にかけて、カナダの2か所の刑務所でボランティアとして受刑者の読書会に参加した経験をつづった本である。

刑務所で読書会?
私も一瞬、驚いた。

だが、私にもかつて働いていた精神科病院で、古く病舎としては使われなくなった木造建物の一室を患者さんたちと一緒に改造し、机を椅子やソファを並べて、図書室を作った経験がある。
古本屋から安く本を購入したり寄付を集めたりして、図書館分類に従って本棚に並べ、貸し出しも行った。図書館係は患者のボランティアだった。

その図書室で、全病棟の患者さんたちに声をかけ、週1回グループ(フリートークの集まり)を行っていたのだが、実際に本を読んで感想や意見を言い合うという会ではなかった。
はっきり言おう。患者さんたちが本を読むことはあまり期待していなかったのだ。
病気や抗精神病薬のせいで、集中力が低下したり、眠気が強かったりするので無理だろうと思っていたところがある。実際、同じ本を読むには、それだけの冊数を揃えなければならないが、そんな予算もなかった。

また、患者さんの中には、元東大生という人たちも複数いたし、大学教授もいた。
その一方で、中学すらも卒業できなかったという人や、知的障害で施設育ちというような人もいたので、みんなで本を読もうという発想がなかったのだ。
本が好きで読みたい人や、病棟を離れて静かな場所で時間を過ごしたい人が利用できて、中には受験勉強中という患者さんもいたので、勉強に集中できるところがあってもいいと思っていたのである。

だが、本を読むという図書館本来の発想が希薄だったことを、この本を読んで痛切な後悔とともに認識したのである。

そもそも欧米の文化では「読書会book club」というのは人々の生活に古くから根付いているようで、いろいろな物語にも出てくる。重要なコミュニティ活動なのである。

この本に出てくるキャロルは、カナダのオンタリオ州で「刑務所読書会支援の会」を立ち上げ、ボランティアで刑務所での定期的な読書会活動を精力的に行っている女性である。
オンタリオ州と言えば、私も何年か前に行ってしばらく滞在したトロントが首都。
今は、羽生結弦選手の練習拠点として有名である。

著者のアンはトロントで女性の読書会を行っていたが、その参加者の一人キャロルに刑務所の読書会で読む図書の選定に力を貸してもらえないかと誘われ、ついでに参加することを勧められたのである。
しかし、彼女にはかつてロンドンに住んでいたころ、自宅脇の薄暗い路地で強盗に襲われ、危うく命を落としかけたというトラウマがあり、長らくPTSDに悩まされてもいた。
即座に「絶対に無理」という声が彼女の中で大きく響いた。
だが、オンタリオ州裁判所の判事だった父の「人の善を信じれば、相手は必ず応えてくれるものだよ」という父の言葉がよみがえり、ジャーナリストとしての好奇心が不安を少しばかり上回ったのである。

ここでカナダの制度を説明しておこう。
カナダの連邦刑務所では重装備から軽装備まで、刑務所ごとに警備レベルが定められており、受刑者の更生の具合を見て、収容先が変わる。
罰のための、あるいは収容のための施設ではなく、まさに矯正のための施設なのである。
だからこそ、読書会といったボランティア活動を受け入れるのだろう。
実際の作家を読書会に呼んだりもしている。
日本なら、慰問で訪れている芸能人などの話は聞いたことがあるが、発想が違うのだ。
カナダらしく、アボリジニ(原住民)を対象としたプログラムなどもあり、ハーブを燃やして邪気を払う伝統的な儀式も行われているという。

キャロルは、アンのPTSDからの回復にも、刑務所での読書会が役立つのではないかと誘った。
一方、アンは、当時、娘の拒食症が重症化し、介護のためにライターとして勤めていた投資顧問会社をクビになっていた。おまけにアルツハイマー病を患う実母の介護にも手がかかるようになっていた。その気分転換にもなると思われた。
彼女は、刑務所での図書選定委員として読書会に参加すると同時に、その体験を本にまとめることにしたのである。

厳重な身元調査を経て、初めて刑務所を訪れたアンだが、やはり恐怖は付きまとった。
体中にタトゥーのある男たちが18人ほど集まって読書会を開く場所は、本館から80メートルは離れた、看守のいない別館だった(その後、移動するが)。
頼りになるのは、教誨師(受刑者の改悛を助け、精神的安定に導く宗教者)が身に着けている小型の警報機だけ。
やがて、回を重ね、受刑者たちをよく知るようになるにつれ、徐々に恐怖感は払しょくされていく。それでも1対1で面接する際には、やはり緊張が走ったが。

ところで、この本は、読書会で読まれた本ごとに章だてされているのだが、その中には『怒りの葡萄』といったクラシックや、『夜中に犬に起こった奇妙な事件』など、比較的最近の私も読んだことのある本もあった。
だが、『ガーンジー島の読書会』『サラエボのチェリスト』『もう、服従しない』『ポーラ―ドアを開けた女』『ユダヤ人を救った動物園』『またの名をグレイス』など、けっこう社会的な問題がテーマの本が多いことに驚く。
本を購入するための資金を募り、みんなが読んで集まるのだ。
もちろん、おやつに出るクッキー目当てに参加する不埒者もいる。
そうした参加者をどうするかも、受刑者を含めて考えるのだ。

参加者たちは、カナダ生まれジャマイカ育ち、イタリア生まれなど、出自もさまざまだが、みな薬物がらみの犯罪や故殺、連続銀行強盗などの結構な重罪人である。
こうした受刑者が月1回とはいえ、上のような本を読みこなせるのかと思ってしまうのは、やはり偏見があるのだろう。
だが、大学の学生でも無理ではないかと思うのだ。
なにしろ、読み込み方がすばらしく、自分なりの意見をそれぞれが主張しあうのだから。
たとえ、刑務所内では何も楽しみがなく、お互いに自分の犯罪自慢ばかりしあうよりは、本を読んでいる方がいいという意見はもっともだと思うにしても。
どの本も読んでみたくなる。
それにしても、カナダの犯罪者は知的レベルが高いのか?

もちろん、全員が成功したというわけではない。
ほとんどが薬物がらみなので、刑務所に逆戻りしてしまった人もいる。
でも、リハビリテーションや矯正プログラムなどというと、無意識のうちに対象者を一段低い能力の人とみなしてしまう傾向がどこかにあるのだろう。
その後、刑務所での読書会が受刑者の更生に効果があるとわかり、
オンタリオ州全域、さらにはカナダの多くの州で取り入れられるようになったという。
「彼らが夢中になっているのは、もはや麻薬ではなく、書物なのだ」
でも、カナダでだって、この試みが評価されるようになったのは最近のことなのだ。
やはり、刑務所=懲罰・隔離の場という観念を崩さなければ。

精神科病院での図書室グループも、実際に本を読んでみたらどうだったんだろう。

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沖縄・戦争・ものがたり [本のはなし]

今沖縄で、辺野古のヘリパッド建設をめぐって反対する住民の抵抗運動が行われているが、
折も折、原田マハ著『太陽の棘』(文春文庫)を読んだ。

舞台は、太平洋戦争終結まもない琉球。
物語の語り手は、沖縄に駐留する米軍軍医(琉球米軍医療局士官)で、今はサンフランシスコで開業している精神科医エドワード・ウィルソン(通称エド)。
医師になりたての頃、彼は赴任した沖縄で偶然に画家たちと出会う。

この本の解説を書いた佐藤優は、「日本人が沖縄を題材とした作品を書くと、たいていが破綻してしまう」という。
確かに沖縄を描くとすれば戦争の問題は避けて通れないだろうし、太平洋戦争、なかでも沖縄戦を直接体験したことのない作家が、それを描けるのかという疑問はかならず付いて回るだろう。
沖縄人と日本(本土)人の問題も微妙に響いてくる。

佐藤は、この本がその問題をうまくクリアできた1つの要因は、主人公を若い琉球占領軍の軍医としたことだと述べている。
確かに、戦争終結後赴任した医師になりたての若い軍医、しかも精神科医という、医師のなかでもおそらく辺境の存在を設定したことで、占領軍対住民の対立の構図はあまり際立たずに済んでいる。
また、もう一方の画家たちも、戦争中は大日本帝国海軍航空本部に所属する従軍画家として戦地を転々とし、沖縄戦には居合わせなかった。
彼らは戦後、森の奥深くに仲間たちとともにニシムイ美術村という集落を作り、米軍の将校相手に細々と作品を売って生活していた。
エドたちは、休暇でドライブを楽しんでいた際に、偶然その集落を見つけたのである。

沖縄住民は占領軍の米兵を恐怖の目でみていたが、
画家たちの顔には恐れはまったくなく、光に満ちていた。
ゴーギャンのごとく、ゴッホのごとく、誇り高き画家たち、太陽の、息子たち。
彼らの描く絵画もまた、光とエネルギーに満ち溢れた、ユニークなものであった。

そのなかの一人、タイラは、若い頃にサンフランシスコの美術学校に2年間留学していたという。
かつては画家を目指していたエドにとって、そこは憧れの学校でもあった。
タイラはそこで出会った日系2世のメグミと結婚して帰国、東京美術学校に入るが、そこで沖縄出身者として差別される体験をする。
そのまま、従軍画家として南洋諸島に派遣され、戦争画を描いていたタイラは、日本の敗戦後沖縄に戻り、絵画で故郷の復興を目指すことにしたというのである。
終戦後まもなくは、米国軍政府も美術や音楽や踊りといった芸術文化が沖縄の復興の妙薬となると考え、政府内に文化部芸術科をつくり、芸術家たちを生活を含めて支援していたという。
だが、政策の転換で文化部が廃止され、自立を余儀なくされてしまい、タイラたちはこの芸術村を作ったのであった。

エドたちと芸術村の画家たちの交流がこうして始まった。
一方、沖縄では軍の兵士たちの「悪さ」の数々が問題にもなっていた。

集落のはずれに、一人の風変わりな男が住んでいた。
昼間から酒を飲んでいるというその男、ヒガの住む小屋に入ったエドたちは、
そこに不気味な絵を発見する。
どこまでも明るいタイラらの絵画と対照的に、暗闇の中に白い顔がいくつも浮かび上がっている不気味な絵。
思わず、「どうしてこんな暗い絵を描くんだ。明るい絵じゃないと誰も欲しがらないよ」と言ってしまうエド。
突然、怒り出すタイラ。「アメリカーなんて、さっさと、本国へ帰っちまえ」というその目には涙があふれていた。

このことをきっかけに、エドにも沖縄の抱える闇の部分がわかるようになってきたのである。

胸をうつ物語ではあるのだが、残念だったのは、精神科医が主人公であるからには、当然、米軍兵士の心の傷にも言及があるだろうと思っていたのだが、ほとんど出てこなかったことだ。
だが、そのことに触れようとすると、きっと佐藤優が言ったように、この物語は破綻してしまうのかもしれない。
そこまで描ききれるような作家はいないのだろうか。
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江戸時代の市井の人々ー阿蘭陀西鶴 [本のはなし]

朝起きぬけにクシャミがでて、水っぽい鼻水がでてきた。
いよいよ花粉症の季節かと思い、アレルギーの薬を飲んだら、
眠いのなんのって。
夜飲むべき薬だったのね。
仕事もできず、たまらずトロトロと居眠りして1日を過ごしてしまった。

さて、ひさびさに本の紹介。
朝井まかて著『阿蘭陀西鶴(おらんださいかく)』(講談社文庫)

江戸前期の作家井原西鶴とその娘、おあいの物語。
井原西鶴は『好色一代男』や『世間胸算用』などの浮世草子の作者として有名だけれど、
もともとは大阪の談林派という俳壇の俳諧師だったのね。
出世欲が強く、一晩で読む俳諧の数を競う矢数俳諧の興行を打って世間を騒がすような人。
その派手さで、阿蘭陀西鶴と揶揄されたのを逆手にとって、自らそう名乗っている。

しかし、俳諧でいくら有名になったとしても本の売り上げだけでは食べていけない。
そんな父を支えるのが、盲目の娘おあいである。
この本のタイトルは『阿蘭陀西鶴』ではあるが、物語はこのおあいの目からみた(耳で聞き、感じた)父とその世界の物語である。

子供の頃から母に、裁縫や料理など家のことをすべて優しく叩き込まれたおあい。
母が病没したあと、2人の弟たちは他家に養子にやられ、
家ではおあいだけが残った。
母の薫陶のおかげで、おあいは家の中では目が見えないとは思えないほど自由に動き回れ、
人がびっくりするほど上手に料理をする。
父は自宅に人を集めるのが好きで、そのたびに娘自慢をする。
それがおあいとしては嫌でたまらない。

そんなおあいから見た父西鶴は、かえるのような声をだす、下品でどうしようもなく手前勝手な男である。
見栄っ張りで、ええ格好しいの父が、いつも盲の娘のことを心配しているようなことを言うのは、世間の同情を買うためだと、おあいは思う。
父が家のことをかえりみないせいで、母も若くして死に、弟たちとも別れ別れになってしまったと思うのだ。

江戸では松尾芭蕉が新しい俳諧師として台頭してきたのに、対抗心をもやしている。
次々と読む俳諧の矢数を競う俳諧師も増えてきた。
追い詰められた父が俳壇からのそしりもかえりみず、打って出たのが浮世草子の執筆である。
日頃人付き合いがよく、いろいろな人の話を耳にしていたのを脚色して物語にしたのだ。

西鶴は俳諧も物語も、書くときには声を出して読む。
それを聞きながら育ったおあいは、父の苦しみも焦りも、そして得意げな様子もすべて聞き取っていた。
おあいはやがて、父の真意を知ることになる。
ここでちょっと泣けた。

こうした西鶴とおあいの父娘の物語を縦糸として、さらにそのまわりに生きるさまざまな人々の物語が横糸となり、さらに江戸幕府から下される倹約令が庶民の生活におよぼす影響などの背景が描きこまれて、物語に奥行きを与えている。

これまで井原西鶴という人物とその作品については、歴史で習ってきた程度で、実際に読んだことはなかったし、まして歴史の流れの中で捉えてこともなかった。
この物語の中には、芭蕉のほかに近松門左衛門なども登場し、歌舞伎の世界もかいまみられ、ああそういうことだったのだと、学校で習った歴史がようやく動き出す感じがした。
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『ラニーニャ』を読んで知ったこと [本のはなし]

私にとっての伊藤比呂美さんは、詩人というよりも『良いおっぱい、悪いおっぱい』や『おなか、ほっぺおしり』といったいわゆる育児エッセイの著者という印象が強い。

最近では、年齢とともにケアの対象が子供から犬(『犬心』)や父(『父の生きる』)などに変わってきたが、そうした密着した人間関係の生々しい実体験を言葉にしてきたという点では、ユニークな文学者だと思う。

また、『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』では、詩ともエッセイともつかぬ、説教節と詩が融合したような独特の流れのある文体で、父や母の介護に奮闘する体験を描いていたのも、とても面白かった。

今年、岩波現代文庫に入った『ラニーニャ』は、1999年に「野間文芸新人賞」を受賞した作品なので、育児エッセイ以後、『とげ抜き』以前の期間に書かれたものということになる。
詩でもエッセイでもなく、小説。

あとがきを読むと、1997年に夫と別れて子連れでアメリカのカリフォルニアに引っ越したために、お金を稼がなくちゃということで、小説を書くことにしたのだそうだ。

この文庫に収録されているのは、『ハウス・プラント』と『ラニーニャ』と『スリー・りろ・ジャパニーズ』の3作品。
私は、この時期の伊藤比呂美さんの作品をほとんど読んでいなかったので、
この文庫を読みだしたときには、てっきり育児エッセイの続きのように思っていた。
子連れでカリフォルニアにきて、外国人の夫と暮らしているというシチュエーションが、本人のものとそっくりだったので。
ただ、『ハウス・プラント』では「子ども」としか呼ばれない子どもが一人だけだし、『ラニーニャ』では、カノコちゃんではなくあい子ちゃんだし、サラコちゃんではなくグミちゃんだし。
で、これはエッセイじゃないんだと途中で認識した次第。

でも、性や生理にかかわる生々しい言葉はやはり伊藤比呂美だし、『とげ抜き』につながる、説教節的な文体はここにも見られる。
ただ、お金が必要だからと書いたからなのか、なんだか読んでいても苦しくなるような世界だ。
とくに子どもの神経症的な反応が描かれていると、気持ちが落ち込む。
なにせ生まれたころから知ってるからね。
単なる読者なんだけど、ともだちの子みたいな感じがあって。


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