So-net無料ブログ作成
本のはなし ブログトップ
前の10件 | -

『サラバ!』で考えさせられた [本のはなし]

前から読みたいと思っていながら、分厚い単行本2冊を読み通すエネルギーがなさそうで、文庫本になるのを待っていた西加奈子著『サラバ!』が、3年たってようやく文庫本3分冊になったので、さっそく購入して読んだ。
彼女の本は初めて読む。

帯も表紙の裏のあらすじも読まず、まったく予備知識なしで読みだしたので、第1章「猟奇的な姉と、僕の幼少時代」の次が、第2章「エジプト、カイロ、ザマレク」というタイトルだったので、いったいこれは何の話だろうと戸惑った。
なにせ、日本の小説の章のタイトルで、外国の地名-しかもエジプト、カイロ、ザマレク!―が出てくるなんて予想もしていなかったので。

実は、今から30年以上も前に、商社に就職した友達がカイロに語学留学していたので、2週間ほどエジプトを旅したことがあった。
なので、ザマレク近辺の様子は思い浮かべることができる。街に響き渡るコーラン(アザーン)の放送の声も。ナイルに浮かぶ白い帆の小舟ファルーカも。

著者の西加奈子さん自身がイラン・テヘランで生まれ、カイロで育ったという経歴を知って、なるほどどうりで街の風景などの描写が詳しいわけだと納得。自身の体験から描いているのだろう。

エジプトに行った時、「ナイルの水を飲んだ者は、かならずナイルに戻ってくる」と聞いたので、いつかまた訪れてみたいと思っていながら、その後のエジプトでのテロ事件や政情不安で、とても行けそうもないと思っていたので、この小説の中で再訪できたような気がして嬉しかった。

そんなことに驚きながら読み始めたのだが、物語はそうした旅情とはかけ離れた(ファンタジーと言ってもよいような)ドラマが、激動の世界情勢と主人公圷(あくつ)歩の一家の物語が交錯する形で展開していく。

歩は、父の海外赴任先のテヘランで生まれ、イラン革命でいったん帰国し大阪に住むが、すぐに新しい土地にも溶け込んだ歩と違い、姉貴子はなかなかなじむことが出来ず、孤立を深めていく。

姉はガリガリに痩せていて、その不器用な態度に同級生から「ご神木」というあだ名を頂戴するような子どもで、しょっちゅう怒りにまかせて部屋中を破壊したり、部屋に引きこもったりするのである。
母親との関係は最悪なのだが、この母親も、ほかの人の気持ちには無頓着な自己中心の女性として描かれる。

一家の悩みの種は、奇矯なふるまいをする「猟奇的な」姉である。
周囲のことは一切お構いなしにひどい騒ぎを起こすこの姉を見ながら、歩はひたすら目立たないよう、まわりに気に入られるよう、「良い子」として生き延びていこうとする。
彼は、姉とは対照的に顔立ちもよく、どこに行っても人気者である。それを自分でもよくわかっている。
こうした歩の、表向きの顔とは裏腹の、醜い顔、内心の意地の悪い思いがしばしば吐露されているのだが、実際には相手の反応が読めるので、口に出して言わなかった、ということが繰り返し記述される。

それでもカイロでは、歩はヤコブというコプト人の少年と親しくなる。言葉の壁を越えて(というところがミソ)、理解しあえる友となるのだが、両親の離婚でエジプトも後にせざるを得なくなる。
ここで「サラバ!」の意味が分かり、涙。

日本に帰国後、母は次々に恋人をつくり、姉は近所のおばちゃんが教祖とされた正体不明の宗教にのめり込んでいく。そこへ阪神大震災が起こる。
逃げるように東京に移った歩は大学生になってからも、あいかわらずモテモテで、次から次へと女性と関係をもつ。

この小説の中で、このような二面性をもつ人間として歩は描かれるのだが、醜い内心を(文章で)さらした後に、決まってその醜さを自分から指摘するのである。まるで言い訳するように。
このパターンが繰り返されるので、なんだかずるいなという気がしてきた。腹黒い嫌な奴なのに、自分は腹黒いとわかっているから許して(本当はいい奴なんだ)、と言っているようで。

この後の話はネタバレになるから書かないが、歩にも大きな変化、しかも自分ではどうしようもない変化が洗われることだけは言っておこう。
そして、対照的な姉と弟、自己中心的な母親と出家する(徹底的な愛他主義の)父親の対比などを通して、自己とは何かということが問われていく。
自分の欲求のままに生きるのが、正しい自己としての生き方なのか。他人の考えや期待に沿って生きるのは、だめなのか。
自己と他者との関係について、深く考えさせられた小説だった。

とても面白く感動もし、著者の力量に感服もしたが、1か所だけ気になったところがあった。
それは、最後のほうで大人になった歩が姉と対峙するシーン。

姉がかつてのめりこんだ教会の建物の跡地に建った2棟の大きなマンションを背に、姉が立っているのだが、「西日が背中から当たって、姉の顔を影にしていた」と描写されているのだ。
大きなマンションがあって、それを背にして立ったら、背中に夕陽は当たらないだろうに・・・。
この場面がクライマックスと言ってもよいだけに、こんなことに引っかかっても仕方がないと思いながら、でもね・・・。

と書いて、最初投稿したのだが、後で読み直すと、背中は歩の背中なのかもしれないと思えてきた。
つまり、姉の前に立つ歩の背中に夕陽があたって、目の前の姉の顔が(自分の)影になっている・・・と考えると、矛盾はない。なるほど、これならすっきり。
でもなぜ、大事な対決シーンなのに、作者は姉の顔を隠そうとするのだろう…。
歩自身へのコンフロンテーションを行うのは、姉でも他者でもなく、歩自身だということの暗喩なのだろうか。
nice!(0)  コメント(0) 

スウェーデンが出てこないスウェーデン・ミステリ [本のはなし]

それにしても時の経つのが早すぎる。
繰り返し言っていることだけれど。

一つは、最近再び数独にはまって、無駄な時間が過ぎていくせい。
とくにスマホの数独は,Hardの段階に達して、ときどきギブアップせざるを得ない問題が出る。
そういうのがあると、ますます熱が入ってしまうのだ。
いいかげんにしないと。とは思うものの・・・。
これがアディクションなのね。

で、ブログを更新する時間もなくなり、それより本を読む時間も無くなるので、書くことがなくなるのが致命的。
ケーブルテレビのミステリドラマは録画して、何度も同じものを見直したりしているのだが…。
これでは頭がボケてしまう。

なんて、グタグタ言い訳するのはよして、おすすめブックスの紹介と行きましょう。

トーヴェ・アルステルダール『海岸の女たち』(創元推理文庫)。
スウェーデン・マルメ生まれで、現在は3人の娘とストックホルムで暮らす著者は、もともと映画や演劇のシナリオライターとして25年のキャリアをもち、ベストセラー作家の編集者も務めていたという。
これが50歳を前にしてのデビュー作なのだが、当然ながら完成度が高く、一気にベストセラーの仲間入りして、「北欧ミステリの新女王」と呼ばれるようになったのだそうだ。
最近の北欧ミステリの傾向を反映して、国際的な社会問題が物語にからんでいる。

最初のシーンは、スペインの観光地タリファの海岸。
どうやら船で運ばれてきて、上陸寸前に海に投げ出されたアフリカからの難民とおぼしき女性が、必死に生き延びようとして、海岸にたどり着く。
名前はない。

次の場面では、テレーセという若い女性の観光客が登場する。
ハンサムなサーファーに誘惑されて、酒と薬を飲まされた挙句、レイプされ、タリファの海岸に放り出されたのだ。
あわてて逃げ出そうとして、何かを踏みつける。
何か、ぐにゃりとした物体。黒人の死体だった。

その同じ日、ニューヨークでは、劇場の舞台美術家として評価を得つつあったアリーが、待望の妊娠をしたことに気づく。
フリーランスのジャーナリストである夫のパトリックは、取材のためにパリに行ったまま連絡がない。
夫から劇場に届いた封筒には、謎の写真の入ったディスクと手帳が。
夫の行方を捜すために、アリーは単身パリへと向かう。

一方、テレーセは、父親が警察と赤十字に事情を話したため、警察に呼ばれて海岸で見つかった死体のことを聞かれる。
ここには遠くアフリカから密航してくる難民たちが大勢流れつくのだ。
幸運にも生き延びた難民たちには、ヨーロッパのあちこちで奴隷のような運命が待っている。
どうやら、パトリックはその取材をしていたようだ。
なにか大きな情報をつかんだのかもしれない。

というわけで、スペインやらアフリカやら、ニューヨークやらが出てくるのだが、肝心のスウェーデンはほとんど出てこない。


このアリー。生まれはチェコスロバキアのプラハだが、幼い頃、母とともにアメリカにやってきたという背景をもつ。
そこには、1968年の「プラハの春」や、その後の弾圧、そして、1989年のベルリンの壁の崩壊に続く、チェコスロバキアの「ビロード革命」いった激動の歴史があった。

しかし、アリーナと言う名前もアメリカ風にアリーと変え、母国語も忘れた。
アリーの夫を探す旅は、自らの過去と初めて向き合い、そのルーツを探る旅ともなっていくのだ。

パリで夫の足取りを追ううちに、アリーは奴隷労働を強いられている難民の救出にあたっているボランティア団体と知り合う。
夫もこの活動に賛同していたようだ。
徐々に難民を奴隷にする闇の勢力の存在があきらかになっていく。
だが、誰が味方で、誰が敵なのか…。


妊娠してつわりに苦しみながら、パリからリスボンへ、そしてタリファへと向かうアリー。
飲まず食わずであちこち走り回り、襲われてもめげない主人公に、ありえな~いとつい声を出したくなるのだが…。

一方、地中海を密航して命からがら生き延びたアフリカ女性の悲惨な行程も描かれ、最後にアリーの行程と交差する。
なかなかできた構成である。
手に汗握る冒険活劇を物語る技は女性離れしていて、さすがシナリオライターで鍛えただけある。

この舞台美術家が探偵役というのは私も初めてだが、著者の経験や知識が物語のあちこちに行かされていて、面白い。


nice!(1)  コメント(0) 

ワンダー! [本のはなし]

2017-10-10T12:47:21.jpg

たまたまのぞいた近所の書店の児童書コーナーで、美しい黄緑色の分厚い本がうず高く平積みされていた。
ハリー・ポッターシリーズでもないのに何だろうと見てみると、「世界累計1000万部の話題作」というシールが貼ってある。
『もうひとつのWonder ワンダー』(ほるぷ出版)という本だった。

『もうひとつの』というのは、前作である『Wonderワンダー』という本が2年前に翻訳出版されて、児童書ながら米国ではNYタイムズベストセラー第1位となっていたのだ。

『もうひとつの』の山の中に『Wonderワンダー』が1冊だけ残っていたので、こちらをとりあえず読んでみることにした。ちなみにこれも出版の翌年にはすでに6刷まで出ていた。

この本の主人公はオーガストという男の子だ。
なぜこの本の題名が「ワンダー」なのかは、冒頭に掲げられたナタリー・マーチャントの楽曲「ワンダー」の一節から推測できる。

  遠い町から医師たちが
  私を見るためにやってきた
  揃ってベッドのわきに立ち
  目にしたものに息をのむ
  
  そして言う
  これは神の手による奇跡だと。
  とんなに頭をひねっても、説明することなどできないと

Part1は彼の語りだ。
その章の初めにも「ワンダー」の一節が紹介されている。
 
  この子が私のゆりかごにきて、
  運命の女神はほほえんだ

オーガストは「下顎顔面異骨症」という重大な先天異常をもって生まれてきた。そのために、飲食や呼吸さえも危うくなって何度も形成手術を繰り返したが、両親と姉の深い愛情と庇護のもとになんとか生き延びてきた。
しかし、手術のためだけでなく、見る人をぎょっとさせる特異な顔貌のために、学校には通わず、母が自宅で勉強を教えてきた。

そのオーガストが10歳になり、両親はいよいよ学校に通わせる決断をしたのである。
10歳というのは、日本では小学生だが、オーガストが通うことにした私立学校では中学の1年生にあたるらしい。
小さい頃には近所の公園で一緒に遊んだ友達もいたが、ほとんどが初対面。
あらかじめ校長先生はジャック・ウィルとジュリアンとシャーロットという3人の同級生に彼を引き合わせ、学校を案内するように頼む。

ジャックと優等生のシャーロットは、驚き怖気づきながらもオーガストに親切にふるまう。
だが、ジュリアンだけは嫌悪と怒りを隠さない。いろいろな意地悪を始めるのだ。
おまけにジュリアンの母は、オーガストの存在が子どもたちの心を傷つけると言い、特別入学を許されたのは問題だと、転校させるように騒ぎ出す。

Part2は、オーガストの美人の姉、ヴィアの語り。
章の初めにはデヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』の一節。いわば彼女のテーマだ。
 
  はるかなる世界
  蒼い地球
  そして、なすすべもないわたし

弟を気づかう優しい姉で、弟にひどい対応をする人は友達といえども断固許さず向かっていく。だが、両親が弟ばかりに目を向けていることに、苛立ちと不満をかかえてもいる、普通の思春期の女の子だ。自分が同じ遺伝子を持っていたら…とひそかに悩んでもいる。

 Part3は、学校の食堂でオーガストの隣に来て親しくなった、サマーという女の子。テーマはクリスティーナ・アギレラの『ビューティフル』
 Part4は、ジャック。テーマはサン=テグジュペリの『星の王子さま』
 Part5は、ヴィアのボーイフレンド、ジャスティン。テーマは戯曲『エレファントマン』から。
 Part6は、再びオーガスト。ここでのテーマは『ハムレット』から。
 Part7は、ヴィアの友達のミランダ。テーマはアンダイン『美しいもの』から
 そして最後は、オーガスト。ユーリズミックス『ビューティフルチャイルド』から

  あなたなら、空に手がとどく
  飛びなさい・・・・・・美しい子どもよ
 

こんなふうに章ごとにオーガスト本人の視点から友人、きょうだいの視点へとかわり、その子どもたちの住む体験世界が重層的に描かれていく。
 この1作目でさえ、読んでいて涙があふれてきたのだが、2冊目となるとさらに・・・。

 『もうひとつの・・・』では、1作目でいじめっ子だったジュリアン、幼なじみのクリストファー、優等生のシャーロット(うわべだけの親切?)が語り手となって、オーガストをどう体験していたかを語る。

作者のR・J・パラシオは、なぜ1作目でジュリアンやシャーロットを描かなかったかとよく聞かれたが、いじめっ子の話をいじめられる子どもの話と一緒に語るわけにはいかないと書いている。それでは、単純な相対化に終わってしまうからだろう。

巻を変えて、じっくり彼らの語りに耳を澄ませると、これまた涙がこぼれ落ちてくるのである。あたたかな涙である。

今年の秋には映画も公開されるそうだ。
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:moblog

天才数学者のひ孫 ポアンカレ捜査官がカオスを呼ぶ! [本のはなし]

ハヤカワのポケミスの『捜査官ポアンカレ-叫びのカオス』というミステリーを本屋で見つけて、さっそく購入した。刊行されたのは2013年8月だから、すでに4年前になるのだが、どういうわけか気づかなかった。
主人公はアンリ・ポアンカレという名のインターポールのベテラン捜査官。
世界的に有名な数学者のひ孫という設定である。

曾祖父のジュール=アンリ・ポアンカレという人物は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて数学や数理物理学、天体力学の分野で数々の功績を残し、世界的な賞も多数獲得しているフランスの実在の天才数学者である。カオス理論などでも有名で、科学を志した人ならば、その名を聞いたことのない人はいないだろう。
最近でも、ミレニアム懸賞問題として100万ドルの懸賞金がかけられたポアンカレ予想とよばれる仮説を、2002~3年にかけてペレルマンというロシアの数学者が証明したというニュースが世界を駆け巡り、彼が100万ドルの懸賞金を受け取る、いや受け取らないということが話題になった。

といっても、内容はチンプンカンプンなのだが。
これでも受験勉強をしていた頃は、数学の難問に挑戦するのがクイズ感覚で楽しくて仕方がなくて、難問ばかりを集めた問題集を次々と片づけていたのだが、東大の理科一類に入学したとたん、そんなものは数学と言えるものではないということをつくづく思い知らされたのだった。
なにしろ、数学科や物理学科などに進む人の頭はとびぬけているという印象があった。
ところが、その数学科に進学した同級生が、「世の中にはとんでもなく頭がいい奴がいるんだよ」と情けなさそうな声で言った。
「数式を見ただけで、それが図になって見えるんだって」

そんなわけで、そのポアンカレのひ孫という設定に、これは読まねばと思ったのは、過去のコンプレックスがうずいたからだった。

この本をパラパラとめくって驚いたのは、ミステリなのに、自然科学の論文のように写真や図像がいくつも提示されていたことだった。それも、木の葉や地図や人体の血管など。
これは「単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3 に同相である」というポアンカレ予想(Wikipediaからの拝借)になぞらえて、地球上には相同的な形をなすものが多数存在するという仮説がこの物語のなかに重要なヒントとして繰り返し出てくるのだ。

ミステリだから当然事件が起こる。
アムステルダムのホテルの最上階で、世界貿易機関で講演する予定だった数学者が爆死するという事件である。それもジェット燃料を使って、その部屋だけがすっぽり破壊されるという極めて手の込んだものだった。
なぜ数学者が殺されなければならなかったのか?

数学者の死に曾祖父からの因縁を感じたポアンカレが捜査に乗り出すのだが、そこに彼が逮捕したセルビア内戦の戦争犯罪者パノヴィッチの陰謀の影が…。私怨か?テロか?

彼はヨーロッパとアメリカを股にかけて捜査に当たる。
今、スペインにいたかと思えば、次にはイギリスにいたり、アメリカのボストンやNYにいたり…。ものすごいテンポ。
第三世界の過激派やら、終末の預言者やら、過激派組織やらが登場するかと思えば、その合間合間に数学者の遺した、謎の写真や図像に関する考察が混じり…。

副題の「叫びのカオス(All Cry Chaos)」というのもジュール・ポアンカレのカオス理論にちなんだものだろうが、物語もカオスなのだ。わからないところは、すっ飛ばして読み進むしかない。

作者のレナード・ローゼンは、このデビュー作でアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞にノミネートされたという。
数学から、経済、政治、聖書、化学、ロケットなどの多方面の知識がちりばめられた内容からてっきり理系アタマの人かと思ったら、もともと英語を教える高校教師から出発し、ハーヴァード大などで英作文講座の教壇にも立ったことがある、文系の人だった。そちら方面での著作もあり、ラジオのコメンテータなども務めたことがあるという。
博覧強記の相当アタマのいい人なんでしょうね。

nice!(0)  コメント(0) 

商いの戦国武将のたたかい、第4巻 [本のはなし]

高田郁さんの『あきない世傳 金と銀』の第4巻「貫流編」。
貫いて流れる川の流れですよ。

武庫郡津門村に学者の子として生まれ、生活のために齢9つにして大坂天満の呉服商、五鈴屋に女衆奉公に出た幸(さち)は、番頭の治兵衛に見込まれ、商いのいろはを学ぶ。
五鈴屋は、2代目徳兵衛の妻、富久が「お家さん」として夫亡きあとも店を守ってきた。
しかし、息子の3代目徳米が病没し、3人の孫たちに店は託される。
しかし、4代目徳兵衛となった長男は、商いには興味をもたず、遊び明かして嫁も去ってしまう。そして、幸を後添えに迎えるが、その4代目もやがて不慮の死を遂げる。

3代目の突然の死に、次男の惣治が幸をめとることを条件に5代目を襲名。
惣治は長男と違って商才にたけ、必死で店を大きくしようと各地を奔走するが、せっかく羽二重の産地として育てた江州波村に前貸ししていた銀4貫の預り手形が、両替商の分散により、紙くずと化してしまった。
しかも、その人情を解さない性質のため、惣治は情のないやり方で波村の人々の怒りを買い、奉公人らの眼前で「店主の器でない」となじられてしまう。
これが、前巻までのあらすじ。

惣治は長兄の4代目と違って、幸を妻としていつくしむのだが、女は商売に口出しすべきではないという考え。
何度か幸のアイデアで、店は危機を脱するのだが、幸もそんな夫の気持ちを忖度して、夫を立てることを忘れなかった。
そんなプライドが高い次男坊の惣治である。奉公人らの眼前で「店主の器でない」「幸が店主ならばいい」とまで言われて激高した惣治は、幸の顔面を殴って店を出奔、そのまま姿をくらましてしまう。
しかし、あれほどまでに店に命をかけていた夫が、店を黙って放りだすとは幸には解せないのだった。

そんなある日、浮世草子の道で生きていくと店を出て貸本屋に身を寄せていた3男、智蔵(ともぞう)が惣治から預かったという文をもって、店にやってくる。
そこには、「店を出て隠居したい」としたためられていた。
さらに、店は弟智蔵に託すとあり、すでに呉服仲間にも申し入れしてあるという。
商売が嫌いで店を飛び出した智蔵である。商才もないことは本人もよくわかっている。
お家さんの富久もまた、そのことは百も承知で、幸を養女にすると言い出す。
しかし、養女にしたところで、大坂天満には「女名前 禁止」という掟があった。
女は家持ちにも店主にもなれないのである。

このあたり、中島京子さんの『かたづの』に似たテーマである。『おんな城主直虎』も?
たしかに、幸ももと番頭の治兵衛に「商いの戦国武将になれる器」と言われていた。

その後、さらに話は急転する。
惣治から幸を離縁する「去り状」が出されたのだ。
幸を人形浄瑠璃にさそった智蔵はその帰り道、幸に「自分の嫁になってくれないか」と言いだす。

智蔵はまだ家にいたときから、ひそかに幸に思いを寄せていたふしはあった。
幸も、学者を目指していながら夭折した兄の面影を智蔵に見ていたこともある。
しかし、そもそも長男の後添えになり、長男が亡くなって次男の嫁になっただけでも世間の噂になった幸である。次男が行方をくらまして、今度は三男の嫁になるとは・・・。いくら何でもあり得ない・・・と読んでいて、私も思った。

智蔵は、自分は人形になるという。人形浄瑠璃の人形である。
使うのは幸。その商いの才能を十二分に生かしてもらい、自分はその道具となるというのである。

そんなわけで、幸はまた新たな商いの人生を歩んでいくことになる。
だんだんスケールアップですぞ。
続きは読んでのお楽しみ・・・

nice!(0)  コメント(0) 

平和主義の女当主 [本のはなし]

もう決まり文句のようになってしまいましたが、時間のたつのが速すぎる!
7月はあったのか?
雨が降らず、梅雨がなかったようだった7月が終わると、
梅雨になったかのような8月。
そして数日前には、まるで”梅雨明け”のカンカン照り。
何なんでしょうね。

今日は、おすすめブックス。
中島京子さんの『かたづの!』(集英社文庫)

最近文庫になったばかりだが、Amazon情報によれば、2年前に「柴田錬三郎賞、歴史時代作家クラブ賞作品賞、河合隼雄物語賞の3冠を受賞し、王様のブランチブックアワード2014の大賞にもなった話題作の文庫化」。

中島京子さんと言えば、『小さいおうち』で直木賞を受賞したことで有名。
私もそれしか読んでおらず、今はもっぱらFaceBookで多彩な活動ぶりを追っている。
ちなみに、映画『小さいおうち』は、生前、母と二人で観た最初で最後の映画となった。
大正14年生まれの母は、自分の青春時代そのままだと、感激していた。

で、『かたづの!』である。
へんてこなタイトルだと思ったら、「片角」なんですね。
角が1本しかない羚羊(カモシカ)。
「!」がついているのが、おもしろい。

ジャンル的には、歴史ファンタジー小説ということになるらしい。
たしかに語り手がこの片角のカモシカだから、ファンタジーには違いないのだが、
それが「虚」であると思わせない語りぶりがすごい。
ぜんぜんありそうに思えるのだ。(へんな日本語?)

時代は、江戸の慶長年間。
舞台は、今の青森と岩手にまたがる地域。
主人公は、根城南部氏当主直政の妻・祢々。

根城南部氏は、「南部氏の一族で盛岡藩士の氏族。清和 源氏の一流で河内源氏の傍流・甲斐源氏南部氏流にあたる。八戸根城を根拠地としたため、八戸南部氏ともいい、また江戸時代に遠野に移ったため、遠野南部氏ともいう。」とWikipediaに載っているように、史実に基づいている。

祢々は、片角のカモシカと巡り合う。
このカモシカが語り手なのだが、早々に死んでしまい、遺された片角が霊力をもち、祢々を守り導いていくことになる。
祢々は幼くして直政に嫁ぐが、夫が政争に巻き込まれて亡くなった後、出家し女当主となる。
この祢々、女ながら(性差別!)賢く、たくましい当主となっていくのだ。

戦となると色めき立つ侍たちの中にあって、
祢々は、「戦でいちばん重要なのは、戦をやらないことです。やらなくても利が得られるならやる必要はないし、やって利が得られないなら絶対にやってはならない」「戦が起きたら、勝つのではなく負けぬことです。なるべく傷が浅いうちにやめることだ」と説く。
この平和思想は、今の著者の考えでもあろう。

このように、虚実とりまぜての物語なのだが、その「虚」の部分が、物語が進むにつれ、いや増していき、怪しげな猿だの蛇だのカラスだのが登場してきても、そのときはもう、なんでもありのように思えてきて、驚きもしなくなる。

しかし、その「虚」は、祢々が晩年移り住んだ遠野に残る伝説とつながっていると聞くと、ますます現実とファンタジーとが入れ混じり、不思議な世界を体験することになる。

その人生は喪失と悲しみの連続なのだが、それも乗り越えていく祢々さまだけでなく、
女当主となってからの、イライラと怒りっぽい祢々さまもなかなか素敵だ。
nice!(0)  コメント(0) 

マンケル・ヘニング『流砂』が伝えようとしていること [本のはなし]

2年前の2015年10月5日、北欧ミステリー「刑事ヴァランダー」シリーズの作家として有名なヘニング・マンケルが亡くなった。

 彼と彼の作品については、このブログでも何度も紹介しているが、ミステリーだけでなく、児童文学でもスウェーデンのアストリッド・リンドグレーン記念文学賞を受賞する一方で、長年アフリカに通って劇場を運営するなど、世界で幅広く活躍していた。67歳の若さでこの世を去るのは、本人にとってもさぞや無念だっただろう。

『流砂』(東京創元社)は、彼がある日突然、回復不可能な末期がんと知ってからの葛藤の日々の想いを、彼が出会ったさまざまな絵画に投影しながら綴ったエッセイ集である。
1年前に出版されてすぐ読んだのだが、なかなかブログに載せられないでいた。
内容があまりに濃く、重く、いろいろ考えさせられることがあったからである。

彼はそれより2年前の雪の日に遭遇した自動車事故がすべての始まりだと思っている。
その時は何でもなく、病院にも行かなかったのだが、その後、首が痛むようになり、事故の後遺症を疑って受診した病院で、自分にはもう時間がないことを知らされたのだった。

それ以来、彼は子ども時代のことをよく思い出すようになった。
そのとき彼は、「自分の身に起きた大惨事をどう受け止めたらいいのか、その答えを知ろうと記憶が必死にもがいているのだ」ということに、気付けなかったと書いている。

彼が思い出したのは、学校に一人で向かったある寒い朝のことである。9歳だった。

その日の朝、夢を見た。彼は薄い氷の張った川べりに立っていた。
その川では数日前に足を滑らせた男の子がおぼれて行方不明になっていた。
子ども心に死を意識したとき、と言えるだろう。
だが、夢の中で彼は、自分がおぼれないという確信があって、怖くはなかったという。
彼は同時に、村民館でよく上映された映画のことを思い出す。彼は映画好きで、子ども禁止の映画の時には忍び込んでみていたという。

そのとき彼は、突然思いがけない言葉が頭に浮かび、その場に凍り付いたように立ち尽くした。その言葉は、その後の人生に鮮明な記憶として残る瞬間だった。
「ぼくはぼくなんだ。ほかのだれでもない。ぼくはぼくだ」
私はその瞬間にアイデンティティを得た、と彼は記す。

ちなみに、9歳という年齢は、河合隼雄も子どもから大人になる重要な年齢だと言っている。
ヘニングは、8,9歳の頃、自分はどんな死に方が一番怖いだろうと真剣に考えたという。
彼がいちばん恐れたのは、湖や川の氷の上に立っているとき、突然氷が割れた小売りの下に引きずり込まれてしまい、明るい日の光が見える氷のすぐ下でおぼれることだったという。
誰にも助けてもらえないパニック。

その次に恐れたのが、本書のタイトルでもある「流砂」である。
砂漠の砂の中に引っ張り込まれ、砂に飲まれて窒息してしまう人食い砂。
彼は泣きもせず、叫びもせず、ただ、がんという流砂に引きずりこまれ、飲み込まれまいとして、ほとんど眠れないまま、10日間が経った。
そして、とうとう砂から這い上がり、事実に向き合い始める。

彼は、がんと知ったとき、突然人生が小さくなったようだったと書いているのだが、
それと相反するように、思考はどんどん拡大し、時空を超えていく。

例えば、フィンランドで、国土の母岩を深く掘り下げて、トンネルと地下室を創り、そこに原子力初天書から出る放射性廃棄物を遠い未来まで埋蔵するというニュースに、彼は放射性物質の毒性がなくなるまで、十万年、人の世代に換算すると三千世代の未来までそこに埋めておくということに思いを馳せる。

彼はそこを見学させてほしいと手紙を書くが、断られる。
1度目はその現場を犯罪小説のネタに使ってほしくないという理由で。
2度目は、見学者の安全が保障できないからという理由で。
それで、自分たちが生きてもいない十万年も先が、どうして安全といえるのか?

彼は自分の恐れを探っていく。
彼は、暗闇を恐れ、一人で寝るときは電灯を何個かつけたまま眠る。
その原因は明らかだった。
川岸に立っていた夢を見た翌年、ある晩、彼は何者かの弱々しい声で眠りから呼び覚まされる。目覚めて真っ暗闇の中で、彼はそれが父の声だと悟る。
明かりを点けてみると、父が吐いた血にまみれて倒れていた。脳出血だった。

母は彼が生まれてすぐ、彼を捨てて家を出て行った。
幸いにもその時父は生き延びたのだが、彼の頭に浮かんだのは、「父にも捨てられる」という思いと恐怖だった。
その瞬間から、暗闇の中には思いがけない恐怖があるという思いが、彼の心の中に根を下ろしてしまったのである。
彼が10代も早くから、家を出て、終生世界を住処として活動し続けたこと、とりわけアフリカへの深い愛の背景には、こうした幼い頃の傷つきからくる、孤独と恐怖があったといえるのだろう。

さて、長くなってしまった。
『流砂』は、これからも彼の生きた日々のエピソードを振り返りつつ、自分自身を見つめる作業と、人類の過去と遥かな未来とを行き来しつつ、彼の思索を辿っていく。

そうして彼は自らの恐怖を受け入れ、和解していく(これも直線状ではないが)と同時に、残していく人類に真剣な警告を発して止まないのだ。

未来に責任をもつこと。

彼が、後に残された私たちに痛切な思いを込めて訴えているのは、これである。
すべての人が真摯に受け止めるべき警告である。

それにしても、もう彼の新作を読むことができないのは、ほんとうに悲しく寂しい。

nice!(0)  コメント(0) 

岩波書店初の直木賞! [本のはなし]

芥川賞と直木賞が発表された。

とくに直木賞が岩波書店から出版された佐藤正午さんの『月の満ち欠け』に授与されたことは、岩波書店初の直木賞受賞作として、話題となった。
また、佐藤さん自身もかなりのキャリアをもつ作家であり、今更という感があるという。

私はこれまで彼の作品をまったく読んだことがなく、たまたま本屋で「直木賞候補に」という帯を見て、ふと読む気になって購入したのだった。

『月の満ち欠け』というタイトルが、森絵都さんの『みかづき』に似ていたこともあったかもしれない。

死者の蘇り、いわば輪廻転生のようなことがテーマとは、はっきりわかっていなかったのだが、母が亡くなったことも、どこかで影響していたのかもしれない。

帯に「久々の一気読み!」とあったのだが、本を読むのはベッドに入って寝るまでのせいぜい数十分なので、「一気読み」とはいかなかった。

で、とにかく輪廻転生だから、時代を超えて、何人もが登場し、その人ごとに人間関係があるので、とびとびに読んでいると、この人誰だっけということがしばしばあって、最後に最初のほうを読み直すことになった。

しかも、蘇るごとに新たな物語になるのではなく、関係がつながっているので、余計ややこしい。この物語を理解するには、一気読みするしかない。

それに、せっかくの受賞作をけなすようなことばかりいうようで悪いが、
女性が何度も蘇るとしたら、相手に相当な魅力がないといけないと思うのだが、
登場人物の男性にそれほど魅力を感じられなかったし、その動機も、愛情というより、執着といったほうがよいような感じで、なんでこの人のもとにまた戻ってくる必然性があるのか、ピンとこなかった。
とくに幼女が大人の男性に執着するのは、気持ち悪い。
小説の中でも誘拐犯に間違われたりしているが。
間違われちゃって気の毒というより、この女の子の気味悪さのほうが勝る。
蘇るのに事欠いて、なぜにこんな子供にする必要があったのだろう。



nice!(0)  コメント(0) 

読み直し?記憶が・・・ [本のはなし]

前々回のブログで,あさのあつこさんの弥勒シリーズ『冬天の昴(とうてんのすばる)』(光文社文庫)を紹介した。
その際、前作『東雲の途』のことにも触れたのだが、どうもこれを読んだかどうかがあいまいで、読んだならブログに書いているだろうと思い検索してみたら、載っていなかった。

それで、改めて光文社文庫の『東雲の途』を買って読んでみた。
なにしろ、面白そうだと思って買って読んだ本が、すでに以前読んだことのある本だと途中で気づくなんてことがままあるので、恐る恐る読み進んだ。
読んだことがあるような、ないような…で読み進み、結局、最後に読まなかったようだという結論に到達。(でも、すっきりしない・・・。まさか認知症が進んだなんて?)

この巻は、橋の下で見つかった死体の腹の中から瑠璃が見つかるという、異様な事件をきっかけに、遠野屋清之介が西の生国に帰って過去の因縁を清算しようとする、という話である。
その旅に、岡っ引きの伊佐治が同行する。

なので、このシリーズの面白いところでもある、遠野屋清之介と小暮信次郎のからみ(探り合い)は最初のほうにあるだけで、途中からは信次郎も姿を見せず、瑠璃をめぐる謎解きと追手との果し合いのサスペンスが中心となる。
その分、このシリーズの特徴でもある人情話としての面白味も、若干薄い。
(だから、読んだ記憶がないのだろうか)

裏表紙には「著者がシリーズ史上ないほど壮大なスケールで描く「生と死」」と書かれてあるが…。清之介がなぜ生国に戻ろうとしたのか、瑠璃にはどのような秘密が隠されているのか。
やがて、山奥に埋もれたおどろくべき歴史の真実が明らかになっていく…。
「壮大なスケール」かどうかは・・・?
ただ、このシリーズでたびたび侍を捨て、商人となった遠野屋が、社会の在り方、とくに商業や経済というものの意味について独自の考えを語るところは、高田郁の「あきない世傳」シリーズとも共通していて、ちょっと現代社会の批判になっているのかなと思う。


それに、この巻には『冬天の昴』に登場する同心小暮信次郎の女、品川の宿「上総屋」の女将「お仙」や、小間物問屋遠野屋で清之介の片腕となっている「おうの」らが登場し、過去の経緯が語られており、武家の次男として生まれた清之介がどうして江戸の小間物商となったのか、小暮信次郎が怪しんで執拗に探ろうとしている清之介の過去の因縁がどんなものだったのかも説明されている。

というわけで、後から読んでもそれはそれでなるほどという読み方ができて、それはそれで面白かった。

nice!(0)  コメント(0) 

心理劇を楽しむ時代小説 [本のはなし]

あさのあつこさんの『冬天の昴(とうてんのすばる)』(光文社文庫)。

北町奉行所定町廻り同心、小暮信次郎と小間物屋「遠野屋」を営む清之介、それに信次郎に仕える岡っ引きの伊佐治の3人の駆け引きが面白い「弥勒」シリーズの第5弾である。
実は第6弾の『花を吞む』がハードカバーで今年1月に出ているらしく、早く読みたいのだが、ほかにも読む予定の本が山になっているので、文庫になるのを待とう。

あさのあつこさんは、やっぱりうまい。
文章にリズムと流れがあって、なんだか浄瑠璃を聴いているような気分になる。
あるいはテレビの時代劇のナレーションを聴いているようにも。

物語は品川宿の旅籠『上総屋』の女将お仙の数奇な運命から始まる。
御家人だった夫が、女郎宿で遊女と心中事件を起こし、骸となって自宅に運び込まれたのだ。
実直で小心な夫が、そんな大胆な行動に出るとは考えられなかったが、その汚名を濯ぐこともかなわず、家は取り潰され、姑も「恨みを晴らしてくれ」と言い残して、井戸に身を投げて果てた。

その後、流れ流れて上総屋の女将になったお仙。そこに通ってくるのが、小暮信次郎その人である。例によって孤独を抱えて、どこまでもクールな信次郎。女泣かせなんだなあ…。

あるとき、小暮信次郎の同僚で本勤並(ほんづとめなみ)になったばかりの赤田哉次郎が女郎と心中するという事件が起きる。
お仙の夫と同じように、およそ心中などを起こしそうもない、若く実直な人物だった。
裏に邪悪な匂いを嗅ぎつける信次郎。

一方、遠野屋清之介の過去にただならぬものがあるとかねてより疑っている信次郎は、足しげく遠野屋に通い、まるで真剣で切り結ぶようなやり取りを繰り返している。それを楽しんでもいるようである。それを脇で見ている岡っ引きの伊佐治はそんな信次郎に呆れている。

信次郎はお仙に、夫の心中事件を探ってみるように言う一方で、清之介にお仙の用心棒を頼む。清之介はその意図を知りたがるが、信次郎はなかなか明かさない。

一方、遠野屋の表座敷では、小間物に加えて反物や帯、足袋などの商人と合同で売る催しが女客の人気を呼んでいた。その客の一人、材木商『伊勢屋』の内儀、お登世の様子がおかしい。どうやら清之介目当てに来ているようだ。
もともと伊勢屋の一人娘で、婿を取ったのだが、どうやら男狂いの気があるらしい。その様子が尋常ではなくなってきた…。

あさのあつこさんの小説の魅力は、登場人物の心の機微が細やかに語られるところである。
たいてい、主人公はどちらかといえば発達障害的な、人の気持ちに無頓着で、人間関係が一方的になりがちなタイプで、時代劇の人情話にはまるで向かないタイプだ。
小暮信次郎もそうだが、遠野屋清之介もかつてはそのような人間だった。遠野屋の娘おりんと出会って、生き直すことにするまでは。
それを人情でつなぎとめているのが、岡っ引きの伊佐治ということになるか。

伊勢屋の内儀、お登世は言ってみれば、ボーダーラインの患者。
このお登世が、すっかり狂乱して遠野屋に現れたとき、清之介の片腕として遠野屋の商いを盛り立てている「おうの」がお登世を落ち着かせるのだが、このお登世をめぐるやりとりが、まるで精神療法の物語みたいになっているのである。
ま、物語だから、そんなにうまくいくものか、とは思うけどね。

最後はすべての物語が一つに収斂していく。見事である。

nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | - 本のはなし ブログトップ
メッセージを送る