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にわか歴女~小倉城のなぞ [歴史の話]

子どもの頃住んでいた北九州市八幡区(当時)の社宅は、当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの二階建て、英国式に言えば「セミ・デタッチド」、つまり2軒がつながって1棟となっている家だった。
 その庭に、新しい家屋とはそぐわない古びた石柱が建っていた。そこには、筑前(ちくぜん)国・豊前(ぶぜん)国境という文字が刻まれていた。
何となくそこだけ「江戸時代」であった。
 
今回、小倉に行き、小倉城などを眺めて帰ってきてから、北九州の歴史を知りたくなった。
当時カトリックの学校に通っていたので、学芸会で「細川ガラシャ夫人」などが演じられていて、小倉城は細川家と関係があるくらいのことは知っていたが、それ以上のことはまったく知らなかった。

そこで、ネットで検索してみると、江戸時代の全国の諸藩の地図なんてものもすぐ見つかった。http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/kyushu_map.html
それを見ると、筑前は八幡あたりから福岡、佐賀のあたりまでの黒田家の領地。豊前は、小倉藩と中津藩を含む主に小笠原家の領地であった。中津藩は福沢諭吉が生まれた土地だ。

江戸初期の北九州を見てみると、けっこう出入りが激しい。

関ヶ原の戦いの後、そのときの論功の結果、黒田家が筑前福岡に移り、そのあとに丹後宮津にあった細川忠興が豊前中津に入って、豊前一国と豊後の一部を領し、小倉もその中津藩領内となったとある。細川忠興は当初、中津に入るが、小倉に築城して移り、小倉藩が成立する。

ちなみに、細川忠興の正室が細川ガラシャ夫人。明智光秀の三女である。知らなかった。
織田信長の勧めで嫁入りしたんだそうな。
彼女の時世の歌「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」はあまりにも有名。
彼女の数奇な運命は大河ドラマになるわねと思ったら、なんだ、とっくになっていたんじゃないの。2011年の『江~姫たちの戦国~』。ぜんぜん見なかった。

その後、肥後熊本の加藤家が改易になって、細川家が肥後に移ると、当然、それまで外様ばかりであった九州の抑えとして、譜代の大名を置く必要があると考えられ、細川家の旧領には家康の外孫、外曾孫たちである小笠原家一門四家が配置された。

小笠原家は八幡太郎源義家の弟、新羅三郎源の義光が甲斐に入って、裔は源頼朝に仕え、足利尊氏に仕え、小笠原貞慶の時に信濃深志に拠るが武田信玄に攻められ、徳川家康を頼る。
従っていわゆる三河譜代ではないが、徳川譜代の中では重きを成す家なのだそうだ。
名家中の名家であり、鎌倉・足利・徳川の各幕府の臣として家を全うするとともに、小笠原式礼法を家伝として伝授する家でもある。

というところで、次の文章に驚いた。

小倉藩と言って、まず記憶にのぼるのは、不名誉ながら、幕末の第二次長州征伐での小倉城陥落だろう。

な、な、なんだ? 小倉城陥落なんて聞いたことないぞ。

ということで、次はネットで「第二次長州征討」を調べなきゃ。
第一次のほうは、とりあえずパスして。

小倉口では、総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉・山縣有朋ら率いる長州藩との戦闘(小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われたが、小笠原の指揮はよろしきを得ず、優勢な海軍力を有しながら渡海侵攻を躊躇している間に6月17日に長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われ、その後も諸藩軍・幕府歩兵隊とも拱手傍観の体で小倉藩が単独抗戦を強いられる状態だった。また、佐賀藩は出兵を拒んだ。

関門海峡を挟んで小倉が長州とやりあった「小倉戦争」だなんて、これまた初耳だぞ。

7月27日の赤坂・鳥越の戦い(現在の北九州市立桜丘小学校付近)では肥後藩細川氏の軍が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せた。
しかし依然として小笠原総督の消極的姿勢は改まらず、事態の収拾に動くこともなかったことから、肥後藩を含む諸藩は総督への不信を強め、この戦闘後に一斉に撤兵・帰国し、小笠原総督自身も将軍家茂の薨去を理由に戦線を離脱した。
孤立した小倉藩は8月1日に小倉城に火を放って香春に退却し、小倉は長州藩の占領下となったまま停戦。
そのため、小笠原家は藩庁を香春(かわら)に移し、小倉は占領下のまま、維新を迎える。

その後、小倉藩は家老・島村志津摩らの指導により軍を再編して粘り強く長州藩への抵抗を続け、戦闘は長期化してゆくこととなるが、これで事実上幕府軍の全面敗北に終わる。

この後の歴史の動きがすごい。

戦いの長期化に備えて各藩が兵糧米を備蓄した事によって米価が暴騰し、全国各地で一揆や打ちこわしが起こる原因となった(世直し一揆)。

戦況不利の最中の7月20日に家茂が死去、徳川将軍家を継いだ徳川慶喜は大討込と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言したが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の勅命を発してもらう。
また慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息した。
なお、慶喜は停戦の直後から、フランスの支援を受けて旧式化が明らかとなった幕府陸軍の軍制改革に着手している。

ところが、
朝廷の停戦の勅命と幕府・長州間の停戦合意成立にもかかわらず、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しなかった。
この長州藩の違約に対し、幕府には停戦の履行を迫る力はなく、小倉藩は独自に長州藩への抵抗・反撃を強力に展開した。
10月に入り、長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、企救郡南部の小倉藩の防衛拠点の多くが陥落するに及んで小倉・長州両藩間の停戦交渉が始められ、慶応3年(1867年)1月にようやく両藩の和約が成立した。

第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた。そのため、この敗戦が江戸幕府滅亡をほぼ決定付けたとする資料も見られる。

名家とうたわれた小笠原家の小倉藩が、かくももろく陥落し、みずから火を放つという失態を演じたなんて郷土の歴史は教わらなかった。公立学校では教えていたんだろうか。

父の故郷、福島の会津若松では、白虎隊の悲劇は知らない人はいないのに。

でも、それが江戸幕府の終焉のきっかけとなったというのもすごいじゃない?

にわか歴女になってしまった。

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