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ワンダー!

2017-10-10T12:47:21.jpg

たまたまのぞいた近所の書店の児童書コーナーで、美しい黄緑色の分厚い本がうず高く平積みされていた。
ハリー・ポッターシリーズでもないのに何だろうと見てみると、「世界累計1000万部の話題作」というシールが貼ってある。
『もうひとつのWonder ワンダー』(ほるぷ出版)という本だった。

『もうひとつの』というのは、前作である『Wonderワンダー』という本が2年前に翻訳出版されて、児童書ながら米国ではNYタイムズベストセラー第1位となっていたのだ。

『もうひとつの』の山の中に『Wonderワンダー』が1冊だけ残っていたので、こちらをとりあえず読んでみることにした。ちなみにこれも出版の翌年にはすでに6刷まで出ていた。

この本の主人公はオーガストという男の子だ。
なぜこの本の題名が「ワンダー」なのかは、冒頭に掲げられたナタリー・マーチャントの楽曲「ワンダー」の一節から推測できる。

  遠い町から医師たちが
  私を見るためにやってきた
  揃ってベッドのわきに立ち
  目にしたものに息をのむ
  
  そして言う
  これは神の手による奇跡だと。
  とんなに頭をひねっても、説明することなどできないと

Part1は彼の語りだ。
その章の初めにも「ワンダー」の一節が紹介されている。
 
  この子が私のゆりかごにきて、
  運命の女神はほほえんだ

オーガストは「下顎顔面異骨症」という重大な先天異常をもって生まれてきた。そのために、飲食や呼吸さえも危うくなって何度も形成手術を繰り返したが、両親と姉の深い愛情と庇護のもとになんとか生き延びてきた。
しかし、手術のためだけでなく、見る人をぎょっとさせる特異な顔貌のために、学校には通わず、母が自宅で勉強を教えてきた。

そのオーガストが10歳になり、両親はいよいよ学校に通わせる決断をしたのである。
10歳というのは、日本では小学生だが、オーガストが通うことにした私立学校では中学の1年生にあたるらしい。
小さい頃には近所の公園で一緒に遊んだ友達もいたが、ほとんどが初対面。
あらかじめ校長先生はジャック・ウィルとジュリアンとシャーロットという3人の同級生に彼を引き合わせ、学校を案内するように頼む。

ジャックと優等生のシャーロットは、驚き怖気づきながらもオーガストに親切にふるまう。
だが、ジュリアンだけは嫌悪と怒りを隠さない。いろいろな意地悪を始めるのだ。
おまけにジュリアンの母は、オーガストの存在が子どもたちの心を傷つけると言い、特別入学を許されたのは問題だと、転校させるように騒ぎ出す。

Part2は、オーガストの美人の姉、ヴィアの語り。
章の初めにはデヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』の一節。いわば彼女のテーマだ。
 
  はるかなる世界
  蒼い地球
  そして、なすすべもないわたし

弟を気づかう優しい姉で、弟にひどい対応をする人は友達といえども断固許さず向かっていく。だが、両親が弟ばかりに目を向けていることに、苛立ちと不満をかかえてもいる、普通の思春期の女の子だ。自分が同じ遺伝子を持っていたら…とひそかに悩んでもいる。

 Part3は、学校の食堂でオーガストの隣に来て親しくなった、サマーという女の子。テーマはクリスティーナ・アギレラの『ビューティフル』
 Part4は、ジャック。テーマはサン=テグジュペリの『星の王子さま』
 Part5は、ヴィアのボーイフレンド、ジャスティン。テーマは戯曲『エレファントマン』から。
 Part6は、再びオーガスト。ここでのテーマは『ハムレット』から。
 Part7は、ヴィアの友達のミランダ。テーマはアンダイン『美しいもの』から
 そして最後は、オーガスト。ユーリズミックス『ビューティフルチャイルド』から

  あなたなら、空に手がとどく
  飛びなさい・・・・・・美しい子どもよ
 

こんなふうに章ごとにオーガスト本人の視点から友人、きょうだいの視点へとかわり、その子どもたちの住む体験世界が重層的に描かれていく。
 この1作目でさえ、読んでいて涙があふれてきたのだが、2冊目となるとさらに・・・。

 『もうひとつの・・・』では、1作目でいじめっ子だったジュリアン、幼なじみのクリストファー、優等生のシャーロット(うわべだけの親切?)が語り手となって、オーガストをどう体験していたかを語る。

作者のR・J・パラシオは、なぜ1作目でジュリアンやシャーロットを描かなかったかとよく聞かれたが、いじめっ子の話をいじめられる子どもの話と一緒に語るわけにはいかないと書いている。それでは、単純な相対化に終わってしまうからだろう。

巻を変えて、じっくり彼らの語りに耳を澄ませると、これまた涙がこぼれ落ちてくるのである。あたたかな涙である。

今年の秋には映画も公開されるそうだ。
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天才数学者のひ孫 ポアンカレ捜査官がカオスを呼ぶ! [本のはなし]

ハヤカワのポケミスの『捜査官ポアンカレ-叫びのカオス』というミステリーを本屋で見つけて、さっそく購入した。刊行されたのは2013年8月だから、すでに4年前になるのだが、どういうわけか気づかなかった。
主人公はアンリ・ポアンカレという名のインターポールのベテラン捜査官。
世界的に有名な数学者のひ孫という設定である。

曾祖父のジュール=アンリ・ポアンカレという人物は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて数学や数理物理学、天体力学の分野で数々の功績を残し、世界的な賞も多数獲得しているフランスの実在の天才数学者である。カオス理論などでも有名で、科学を志した人ならば、その名を聞いたことのない人はいないだろう。
最近でも、ミレニアム懸賞問題として100万ドルの懸賞金がかけられたポアンカレ予想とよばれる仮説を、2002~3年にかけてペレルマンというロシアの数学者が証明したというニュースが世界を駆け巡り、彼が100万ドルの懸賞金を受け取る、いや受け取らないということが話題になった。

といっても、内容はチンプンカンプンなのだが。
これでも受験勉強をしていた頃は、数学の難問に挑戦するのがクイズ感覚で楽しくて仕方がなくて、難問ばかりを集めた問題集を次々と片づけていたのだが、東大の理科一類に入学したとたん、そんなものは数学と言えるものではないということをつくづく思い知らされたのだった。
なにしろ、数学科や物理学科などに進む人の頭はとびぬけているという印象があった。
ところが、その数学科に進学した同級生が、「世の中にはとんでもなく頭がいい奴がいるんだよ」と情けなさそうな声で言った。
「数式を見ただけで、それが図になって見えるんだって」

そんなわけで、そのポアンカレのひ孫という設定に、これは読まねばと思ったのは、過去のコンプレックスがうずいたからだった。

この本をパラパラとめくって驚いたのは、ミステリなのに、自然科学の論文のように写真や図像がいくつも提示されていたことだった。それも、木の葉や地図や人体の血管など。
これは「単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3 に同相である」というポアンカレ予想(Wikipediaからの拝借)になぞらえて、地球上には相同的な形をなすものが多数存在するという仮説がこの物語のなかに重要なヒントとして繰り返し出てくるのだ。

ミステリだから当然事件が起こる。
アムステルダムのホテルの最上階で、世界貿易機関で講演する予定だった数学者が爆死するという事件である。それもジェット燃料を使って、その部屋だけがすっぽり破壊されるという極めて手の込んだものだった。
なぜ数学者が殺されなければならなかったのか?

数学者の死に曾祖父からの因縁を感じたポアンカレが捜査に乗り出すのだが、そこに彼が逮捕したセルビア内戦の戦争犯罪者パノヴィッチの陰謀の影が…。私怨か?テロか?

彼はヨーロッパとアメリカを股にかけて捜査に当たる。
今、スペインにいたかと思えば、次にはイギリスにいたり、アメリカのボストンやNYにいたり…。ものすごいテンポ。
第三世界の過激派やら、終末の預言者やら、過激派組織やらが登場するかと思えば、その合間合間に数学者の遺した、謎の写真や図像に関する考察が混じり…。

副題の「叫びのカオス(All Cry Chaos)」というのもジュール・ポアンカレのカオス理論にちなんだものだろうが、物語もカオスなのだ。わからないところは、すっ飛ばして読み進むしかない。

作者のレナード・ローゼンは、このデビュー作でアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞にノミネートされたという。
数学から、経済、政治、聖書、化学、ロケットなどの多方面の知識がちりばめられた内容からてっきり理系アタマの人かと思ったら、もともと英語を教える高校教師から出発し、ハーヴァード大などで英作文講座の教壇にも立ったことがある、文系の人だった。そちら方面での著作もあり、ラジオのコメンテータなども務めたことがあるという。
博覧強記の相当アタマのいい人なんでしょうね。

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商いの戦国武将のたたかい、第4巻 [本のはなし]

高田郁さんの『あきない世傳 金と銀』の第4巻「貫流編」。
貫いて流れる川の流れですよ。

武庫郡津門村に学者の子として生まれ、生活のために齢9つにして大坂天満の呉服商、五鈴屋に女衆奉公に出た幸(さち)は、番頭の治兵衛に見込まれ、商いのいろはを学ぶ。
五鈴屋は、2代目徳兵衛の妻、富久が「お家さん」として夫亡きあとも店を守ってきた。
しかし、息子の3代目徳米が病没し、3人の孫たちに店は託される。
しかし、4代目徳兵衛となった長男は、商いには興味をもたず、遊び明かして嫁も去ってしまう。そして、幸を後添えに迎えるが、その4代目もやがて不慮の死を遂げる。

3代目の突然の死に、次男の惣治が幸をめとることを条件に5代目を襲名。
惣治は長男と違って商才にたけ、必死で店を大きくしようと各地を奔走するが、せっかく羽二重の産地として育てた江州波村に前貸ししていた銀4貫の預り手形が、両替商の分散により、紙くずと化してしまった。
しかも、その人情を解さない性質のため、惣治は情のないやり方で波村の人々の怒りを買い、奉公人らの眼前で「店主の器でない」となじられてしまう。
これが、前巻までのあらすじ。

惣治は長兄の4代目と違って、幸を妻としていつくしむのだが、女は商売に口出しすべきではないという考え。
何度か幸のアイデアで、店は危機を脱するのだが、幸もそんな夫の気持ちを忖度して、夫を立てることを忘れなかった。
そんなプライドが高い次男坊の惣治である。奉公人らの眼前で「店主の器でない」「幸が店主ならばいい」とまで言われて激高した惣治は、幸の顔面を殴って店を出奔、そのまま姿をくらましてしまう。
しかし、あれほどまでに店に命をかけていた夫が、店を黙って放りだすとは幸には解せないのだった。

そんなある日、浮世草子の道で生きていくと店を出て貸本屋に身を寄せていた3男、智蔵(ともぞう)が惣治から預かったという文をもって、店にやってくる。
そこには、「店を出て隠居したい」としたためられていた。
さらに、店は弟智蔵に託すとあり、すでに呉服仲間にも申し入れしてあるという。
商売が嫌いで店を飛び出した智蔵である。商才もないことは本人もよくわかっている。
お家さんの富久もまた、そのことは百も承知で、幸を養女にすると言い出す。
しかし、養女にしたところで、大坂天満には「女名前 禁止」という掟があった。
女は家持ちにも店主にもなれないのである。

このあたり、中島京子さんの『かたづの』に似たテーマである。『おんな城主直虎』も?
たしかに、幸ももと番頭の治兵衛に「商いの戦国武将になれる器」と言われていた。

その後、さらに話は急転する。
惣治から幸を離縁する「去り状」が出されたのだ。
幸を人形浄瑠璃にさそった智蔵はその帰り道、幸に「自分の嫁になってくれないか」と言いだす。

智蔵はまだ家にいたときから、ひそかに幸に思いを寄せていたふしはあった。
幸も、学者を目指していながら夭折した兄の面影を智蔵に見ていたこともある。
しかし、そもそも長男の後添えになり、長男が亡くなって次男の嫁になっただけでも世間の噂になった幸である。次男が行方をくらまして、今度は三男の嫁になるとは・・・。いくら何でもあり得ない・・・と読んでいて、私も思った。

智蔵は、自分は人形になるという。人形浄瑠璃の人形である。
使うのは幸。その商いの才能を十二分に生かしてもらい、自分はその道具となるというのである。

そんなわけで、幸はまた新たな商いの人生を歩んでいくことになる。
だんだんスケールアップですぞ。
続きは読んでのお楽しみ・・・

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歓びというより苦みを感じさせるイタリア映画 [おすすめシネマ]

再び下高井戸シネマへ。
今回はイタリア映画『歓びのトスカーナ』

2人の女性が精神病院から脱走して…
みたいな予告編を読んで、まず連想するのは『カッコーの巣』と『テルマ & ルイーズ』ですね。

片や男性、片や女性中心目線の映画だけれど、いずれも抑圧から解き放たれて…
というような内容。
なにせ『歓びの』ですからね。

トスカーナと映画と言えば、14,5年前にダイアン・レイン主演の『トスカーナの休日』という映画があった。
夫に裏切られ離婚した寂しい中年女性が、傷心の旅で訪れたトスカーナで、かつての伯爵邸を格安で衝動買い、そして出会いが…
なんて映画があったくらいだから、トスカーナってところは欧米の人たちのあこがれの土地なんでしょうね。
ずっと昔、サウンドトラックが大ヒットした『ブーベの恋人』も舞台はトスカーナなんですって。知らなかった。

この映画の舞台は、トスカーナの郊外、緑豊かな丘の上にある石造りのお屋敷のような館。
精神障害者が暮らす施設である。
修道女やソーシャルワーカーがいるけれど、医師はいない様子。
でも、けっこう具合の悪そうな患者もいて、長期滞在者も多そう。
ここはどんな施設だろうと、首をかしげる。
なにせ、イタリアは精神病院(今は、正式には精神科病院というのだが)を廃止したのではなかったか?
こうした大勢が世話を受けて暮らすリハビリ施設はあるのね。
映画制作にあたって、スタッフやキャストはこうした施設をいろいろ見て歩いたそうだ。

たしかに庭は広く、菜園もあって、入所者たちは昼間は自由に過ごしている様子。
ただ、夜はいくつもの部屋にかなりの人数が寝ていて、ドアもなく、カーテンで仕切られているだけだったり、プライバシーも何もあったものではない感じ。
寝る前の薬はスタッフが、入所者の口へ入れているし…。
その薬をすぐ吐き出して、高値でベアトリーチェに売る入所者たち…。ベアトリーチェという、いかにもお嬢様の名前の中年女性、これがこの映画の主役の一人である。
なんとなく、『カッコー』のマックを連想する。
調子が高く(イタリア人で調子が高いとなると、とんでもないことになる)、お節介焼きで、映画パンフレットによると「虚言癖」という診断名?がついているらしい。
なにしろ、有名セレブや貴族や政治家や法曹界の人たちを知り合いだというのが口癖だ。

そこに自殺企図のうつ病患者、ドナテッラが入所してくる。
アンジェリーナ・ジョリーに風貌の似たドナテッラ。全身タトゥーをしていて、いかにも傷ついてきた女という感じ。
彼女にはレイプされて生んだ息子がいたが、その後、薬物依存や犯罪歴を理由に、無理やり引き離され、養子に出されてしまったのだ。会いたい思いで、夜には一人で涙する毎日。
さっそく世話を焼くベアトリーチェ。(でもタトゥーには批判的)
迷惑がるドナテッラ。
そんな二人をスタッフは、けっこうお互いによい影響を及ぼしあっていると見ていた。

やがてドナテッラが回復したところで、スタッフは二人揃って近くの農園に院外作業に行かせることにする。
二人が院外に出ていれば、ここは静かで助かるというのが本音。いかにもあるある。

ドナテッラはこつこつと働くが、ベアトリーチェは綺麗なスカーフを首に巻き、パラソルをもって作業する人たちをただ眺めて止まらぬお喋りをするばかり。
でも、毎週1回の給料日には、おなじ賃金が支払われる。だれも文句は言わない。
二人はそのお給料をもって街に買い物に出かける。
田舎だと思ったら、街にはとってもおしゃれなショッピングセンターがあって、都会風。

その後、農園に戻った二人は、通りかかったバスに飛び乗る。
ベアトリーチェはドナテッラに息子に合わせるといい、引っ張り出したのだ。
さあ、ドナテッラは息子と会えるのか…。

行き当たりばったりの旅のように見えるが、ベアトリーチェにも目的があった。
それは夫との再会(決して口にはしないが)。
そして、彼女の意外な背景が明らかになる。彼女の狂気に潜む悲しみ。
ベアトリーチェ役のヴァレリア・ブルーニ・テデスキは、いかにも迷惑なお騒がせ女を演じるが、どこか気品があって、実の妹はサルコジ元フランス大統領の夫人なのだそうだ。
『欲望という名の電車』のブランチを思わせるところもある。

これ以上はネタバレになるので書かないが、問題はタイトルである。
『歓びのトスカーナ』
これはないんじゃない?
原題は“La Pazza Gioia”. ネットでの翻訳では「狂牛病の喜び」。変ですね。
どうやら「狂った歓び」という意味らしい。
(日本語にも狂喜乱舞という言葉があるけれど、ちょっと違う。)
いずれにせよ、解放の喜びとはほど遠い、最初はやたらうるさくて、やがて人生の苦さを感じさせる映画である。

映画の最後に、イタリアでは2015年に法律で司法精神病院も廃止されたということが告知される。たしかに、この映画の中にもドナテッラが警察につかまって司法精神病院に搬送される場面があるが、半世紀以上は前の設備を思わせる、日本の精神科病院だって今やこんなところはないという巨大な部屋にいくつものベッドが並ぶ収容施設だ。
でも、結局のところ、何らかの世話をしてもらう環境を必要とする人たちが社会には一定程度存在するという現実を、どうやって受け止めて、よりよい制度を作っていくかは、まだどこにも正解が得られてないということなのだろう。

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チベット映画『草原の河』を観る [おすすめシネマ]

『歓びのトスカーナ』というイタリア映画を見ようと思ってネットで検索したら、
銀座での上映は終わっていて、東京近辺では下高井戸シネマというところで、やっているという情報を得た。

この映画館のことは、全く知らなかったが、下高井戸シネマのサイトで上映予定の映画のリストを見てみると、けっこう良質の映画が並んでいた。
シニア料金もあるし、近ければ会員になってちょくちょく行きたいなあと思ったが、はて、下高井戸ってどうやっていけばいいのか。
でも、千代田線は新お茶の水で都営新宿線の小川町駅に接続していて、さらに笹塚で京王線の各駅に乗り換えれば、意外と時間もかからないことが判明。
これは、ラッキーかも。

で、9月の上映リストの中に『歓びの~』より前に、チベットの映画があった。
タイトルは『草原の河』。1日1回、10時からの上映。
かつてチベット語を学んでいたという友人を思い出したので、連絡を取ると、すぐに行く!ということで、さっそく一緒に観に行った。

彼女によれば、チベットといっても、チベット族の居住する地域は、大きく3つの地域に分かれていて、言葉もそれぞれ方言があって違うのだという。

一つは、ラサを首都とするチベット自治区。「ウー・ツァン」と呼ばれる。
ヒマラヤ山脈の北にあって、ネパールに国境を接している。
ここがふつう私たちがチベットというときに、想像する地域である。

もう一つは、その東側に位置する、中華人民共和国の四川省と一部雲南省にまたがる「カム」と呼ばれる地域。
さらに、その2つの地域の北側、中国青海省の「アムド」と呼ばれる海南チベット族自治州。

この映画が撮られたのは、このアムド地区であり、海抜は約3060メートル。
青海湖と呼ばれる広い湖があり、大部分がどこまでも続く草原である。
一部は砂漠化しているという。
遠くに雪を頂く険しい山々が臨めるが、そもそもこの海抜なので、さほど高く見えない。

ここはこの映画の監督、ソンタルジャの故郷で、
主人公のヤンチェン・ラモ(本名のまま出演)は、監督の遠い親戚なのだそうだ。
(監督の妹のダンナの弟がヤンチェン・ラモの父。遠い姪っ子ってこと?)
家族はアムドで半農反牧の暮らしをしており、映画に登場する放牧地、畑、テント、羊の群れはすべてヤンチェン・ラモの家族のものだという。

監督が里帰りした際に、偶然会って、とくべつなオーラをもっている子だと気付いたことから、この映画の構想が浮かんだという。
そして、彼女の家族とともに生活し、撮影しながら、脚本をつくっていったのだそうだ。
つまり、この映画はこの6歳の女の子によって実現したといってもよい作品なのである。
彼女は上海国際映画祭で、アジア新人賞と最優秀女優賞を史上最年少で受賞した。

父親役のグル(これも本名のまま)も監督の親戚で、アムドの生粋の牧畜民である。
母親ルクドル役のルンゼン・ドルマだけが、チベットの有名な歌手で、監督の友人なのだそうだ。

牧畜民といっても、もともとは放牧で生活を立てていた人々で、今は定住しているが、
春になると草原に出かけ、テントのような家をはって、牧草の種をまき、羊の放牧をしている。
ただ、かつては馬に乗って、羊を追いかけていた牧畜民も、現在ではそれがオートバイに代わった。
(どこで給油するのだろうと、見ていて不思議だったが。)

そんな家族と暮らすヤンチェン・ラモは甘えっ子で、6歳になっても乳離れができていない。
お父さんに買ってもらった大きなクマのぬいぐるみを肌身離さずもっている。

母に甘え、ときにすねる彼女の表情の豊かさ!
母が妊娠しもうすぐ赤ん坊が生まれるということを知り、不安を抱く子どもの心の葛藤をヤンチェン・ラモはみごとに表現する。

この家族にはもう一人の重要人物がいる。父方の祖父である。
今は村から離れた山の洞窟にこもって仏教の修行をしており、人々からは「行者さま」とあがめられている。
だが、父自身は、この祖父と確執があり、何年も会っていない。
これがこの映画のもう一つのストーリーの柱である。

そこにはチベットー中国の激動の歴史がからんでくる。
若い頃、仏教を学ぶ修行をしていた祖父は、
文化大革命でチベット仏教が弾圧されたときに、還俗を強いられたのだ。
その後、家族をもち、子どもも生まれたのだが、「改革開放」政策によって、仏教が再び認められると、祖父は向学の志止みがたく、家族を捨て再び出家したのである。

父グルからすれば、自分の父に捨てられたのである。
さらに、母が癌になり、亡くなる前に父と会わせたいとグルは山へ迎えに行くが、行ってできることはなにもないと、断られてしまう。
それ以来、グルは父を許せないでいたのだ。

だが、この父も病で残された時間も長くない、なぜ会いに行ってやらないのだと信徒に責められ、グルはヤンチェン・ラモをオートバイの後ろに乗せ、父を山の洞窟に訪ねていくのだが…。

この祖父の役を演じたのは、キードゥプという地元に暮らす僧侶である。適役の人を見つけるのに苦労し、何度も足を運んで、ようやく出演を承諾してもらったのだそうだ。

さらに、この映画にはとんでもない名優が出演している。
仔羊のジャチャである。
ヤンチェン・ラモは、母羊を狼に殺され、みなしごになった仔羊に乳をやり、ジャチャと名付けて可愛がる。
やがて成長したジャチャを群れに帰す時がやってきた。
だが、どこまでもヤンチェン・ラモを追いかけるジャチャ。
しかし、そのジャチャの姿が見えなくなる。

チベットの高原に広がる大自然の、息を呑むような美しさと過酷さ。
そして、こんなところにまで及ぶ政治の動き。
その中に生きる人々の、普遍的な愛と憎しみの葛藤。

久々に映画を堪能した感じがした。

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傷だらけの人生 [こんなことあんなこと]

毎週1回、実家の整理に行くことだけが決まった仕事となり、気づいたらもう5ヶ月が経った。
姉と二人での整理作業も、果てしなく続くかに見えたが、確実に物は減っているように見える。
ただ、その減ったかなりの部分は、そのまま二人の自宅に持ち帰っているから、
自宅のほうが大変なことになっている。

なにしろむか~しからの物が押し入れ深くに眠っていて、それを引っ張り出すだけでもたいへん。暗くて中がよく見えないところを手探りで、中のものを引っ張り出していたら、
いきなりこたつ板(昔の分厚くて重い木の板)が倒れ掛かってきて、あわてて腕で抑えようとしたら、手首の外側にえらい傷を作ってしまった。

打撲と擦り傷を合わせたような傷で、1週間経ってもグジュグジュの傷が治らず、むしろ赤みが広がっていく感じだったので、近くの皮膚科を受診。
かなり前から、たまにお世話になっているお医者さんだけど、かなりのお年。
だけど、とても親切なお医者さんで、10時の診察開始のときから待っている患者が玄関の外に列をなすほど。
午前中の診察が終わるのも、2時近く。午後は3時からなんだけど、終わるのは8時ないし9時ごろになるみたい。
患者は一応、診察券を出して、「〇時間後にもう一度来ます」と告げて、出直してくる。

亜鉛クリームにステロイド剤を混ぜた特製のお薬を処方され、朝晩取り替えること2週間。
手首だもんで、会う人ごとに「自傷?」とか「リスカ?」などと聞かれる。
事情を話すと、「やっぱりそうじゃない?」と。

3週目にしてようやく、薬はもういいでしょうと言われたが、瘢痕が板の角の形に赤くくっきり盛り上がって残ってしまっている。
おまけにテープでかぶれて、赤みがかった湿疹痕のようなシミもまわりに残り、あ~れ、雪のような柔肌が・・・(だれも言ってくれないから自分で言う)。

と、そこへきて、実家からもってきたT-Falの電気ポットで、同じ手首の反対側に火傷。
表と裏に傷ができた。

目の前の棚の上のものを取ろうとして手を伸ばしたら、下に電気ポットの注ぎ口がちょうどあって、噴出した湯気がもろに手首を直撃。
あっと思った瞬間、すぐに水道水で冷やしたのだが、火傷ってなかなか厄介。
表面上はただれもなにもないのだが、
日が経つにつれ、どんどん皮膚の奥にまで赤みが進んでいくみたい。
これでまた、皮膚科受診しないといけないか…。
今、悩んでいるところ。

キッチンのガスコンロと水道栓、洗面所と風呂場の水道栓を業者に取り替えてもらって、いい気分なのだけれど、ご本体(私の身体)のほうを取り替えてもらわないと。

なにしろ、新しいガスコンロのグリルは、タイマーや温度調節のコントロール盤がついていて、おまけにメニューを選べば、魚を焼くにも、生魚/干物/姿焼きと選べるのだ。
さっそく干物を焼いてみたが、臭いもしない。
そのままトーストもできる。(トースターが不要になった)
最近のガスコンロはすごい。

すごすぎて、取り付けた業者の人が一通り、機能を説明してくれたのだけど、いざ実際に使おうと思えば、トリセツを持ち出して、調べないといけないのが難点。

でも、今のマイブームは焼き野菜。
夏野菜は焼くと最高。



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平和主義の女当主 [本のはなし]

もう決まり文句のようになってしまいましたが、時間のたつのが速すぎる!
7月はあったのか?
雨が降らず、梅雨がなかったようだった7月が終わると、
梅雨になったかのような8月。
そして数日前には、まるで”梅雨明け”のカンカン照り。
何なんでしょうね。

今日は、おすすめブックス。
中島京子さんの『かたづの!』(集英社文庫)

最近文庫になったばかりだが、Amazon情報によれば、2年前に「柴田錬三郎賞、歴史時代作家クラブ賞作品賞、河合隼雄物語賞の3冠を受賞し、王様のブランチブックアワード2014の大賞にもなった話題作の文庫化」。

中島京子さんと言えば、『小さいおうち』で直木賞を受賞したことで有名。
私もそれしか読んでおらず、今はもっぱらFaceBookで多彩な活動ぶりを追っている。
ちなみに、映画『小さいおうち』は、生前、母と二人で観た最初で最後の映画となった。
大正14年生まれの母は、自分の青春時代そのままだと、感激していた。

で、『かたづの!』である。
へんてこなタイトルだと思ったら、「片角」なんですね。
角が1本しかない羚羊(カモシカ)。
「!」がついているのが、おもしろい。

ジャンル的には、歴史ファンタジー小説ということになるらしい。
たしかに語り手がこの片角のカモシカだから、ファンタジーには違いないのだが、
それが「虚」であると思わせない語りぶりがすごい。
ぜんぜんありそうに思えるのだ。(へんな日本語?)

時代は、江戸の慶長年間。
舞台は、今の青森と岩手にまたがる地域。
主人公は、根城南部氏当主直政の妻・祢々。

根城南部氏は、「南部氏の一族で盛岡藩士の氏族。清和 源氏の一流で河内源氏の傍流・甲斐源氏南部氏流にあたる。八戸根城を根拠地としたため、八戸南部氏ともいい、また江戸時代に遠野に移ったため、遠野南部氏ともいう。」とWikipediaに載っているように、史実に基づいている。

祢々は、片角のカモシカと巡り合う。
このカモシカが語り手なのだが、早々に死んでしまい、遺された片角が霊力をもち、祢々を守り導いていくことになる。
祢々は幼くして直政に嫁ぐが、夫が政争に巻き込まれて亡くなった後、出家し女当主となる。
この祢々、女ながら(性差別!)賢く、たくましい当主となっていくのだ。

戦となると色めき立つ侍たちの中にあって、
祢々は、「戦でいちばん重要なのは、戦をやらないことです。やらなくても利が得られるならやる必要はないし、やって利が得られないなら絶対にやってはならない」「戦が起きたら、勝つのではなく負けぬことです。なるべく傷が浅いうちにやめることだ」と説く。
この平和思想は、今の著者の考えでもあろう。

このように、虚実とりまぜての物語なのだが、その「虚」の部分が、物語が進むにつれ、いや増していき、怪しげな猿だの蛇だのカラスだのが登場してきても、そのときはもう、なんでもありのように思えてきて、驚きもしなくなる。

しかし、その「虚」は、祢々が晩年移り住んだ遠野に残る伝説とつながっていると聞くと、ますます現実とファンタジーとが入れ混じり、不思議な世界を体験することになる。

その人生は喪失と悲しみの連続なのだが、それも乗り越えていく祢々さまだけでなく、
女当主となってからの、イライラと怒りっぽい祢々さまもなかなか素敵だ。
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修繕の日々 [日々の出来事うっぷんばなし]

何かが壊れるときには、決まって立て続けに壊れるもの。
マンションも築20年ともなると、あっちこっちに不具合が。

この夏、ガス給湯器が2度目の交換、
ついでにガスレンジも安全装置の付いたものに交換。
なにしろ、うっかりミスが現実に起こりうるミスになりつつあるので。

さらに、水回りが次々と限界に。
キッチンと洗面所と、ついでに風呂場のシャワーの水栓を一斉に交換する予定。

一番大掛かりなのが、トイレの便器の取り換え。

まずは、タンクの水の調節がうまくいかなくなり、
ときどき空になって水が出なくなり、自力でタンクに注水しなければならなくなった。

さらに、深刻だったのは、ウォッシュレットからの油漏れ。
そのせいか、ギコギコ言うようになった。
便器の内側にオレンジ色の油が垂れて浮いているのを見つけたときには、自分の体調が悪いのかと恐怖におののいて、内科で検査してもらった。もちろん、異常なし。
人体から油が排泄されるなんてありえないよね。人造人間じゃあるまいし。(古い表現!アンドロイド?でも、アトムじゃあるまいし、最近のアンドロイドは油なんか差さないよね)

そのうちに便器の外側の床に油だまりができ、
家庭用の洗剤ではこすっても落ちなかったので、義兄に工業用洗剤を分けてもらい、きれいに落とすことができた。
やっぱりウォシュレットの不具合と確信。
全体を取り替えることにした。
業者にも連絡して、見積もりをとってもらい、ガス・水道・トイレを一斉に新しくすることにした。
(トイレの取り換えは5時間ほどかかるそうだ。その間、トイレは使えなくなる。どうすりゃいいんだ?水も飲まず、我慢するか?)


続いて、ホームページの修繕。
昨年、前のPCが壊れて、新しいPCにした際に、アプリの移行ができなかったので、
HPの更新ができなくなってしまっていた。

何度かソフトの会社とメールでやり取りして、いろいろやってみたが
どうしてもHPの更新までたどり着けず、あきらめていた。
だが、10月からのグループのメンバーを募集するためには、
どうしてもHPを更新しなければならない。
もう一度、相談係の人からのメールを印刷して、じっくり読み直し、
最初からやり直してみた。

まる1日かかって、ようやくHPの更新ページを開くことができ、
何度か試行錯誤を繰り返しながら、何とか更新内容を書き込むことができた。

ただ、右のサイドバーが消えてしまった。
フィジーの写真を載せていたのだけど。
それに画面が左に寄ってしまって、中央に来ない。
なんだか変。

でも、夜も更けてきたので、今日はこれでおしまい。
また、明日にでも気力が残っていたら、トンテンカン修理するつもり。
問題は、すべて気力なんだよね。
なにしろ、実家の整理と並行してだから、かなりしんどいのである。

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久々のリーバス警部 [本とテレビ番組]

まとまった読書の時間がとれなくなって(定年退職したのに、おかしなことだけど)、
ハヤカワのポケミスを読む機会がめっきり減った。
寝る前に読むには重くて、字が小さすぎるのだ。
そして、ひさびさ手にしたのが、イアン・ランキンのスコットランドはエジンバラを舞台にしたリーバス警部シリーズ『寝た犬を起こすな』。

リーバスもいつの間にか定年退職して、いったんは民間人となったが、迷宮入り事件の再調査に参加した(『他人の墓の中に立ち』・・・これを読んだかどうか記憶がない)後に、正式に復職した。
だが、もはや警部ではなく、部長刑事だ。
かつての部下、シボーン・クラークが今は上司(警部)である。
そこに新たに警察の内部監察室(苦情課)に所属していたマルコム・フォックスが、組織の改編で犯罪捜査課に異動になり、シボーンのチームに加わる。

英国のEU離脱によりスコットランド独立の機運が盛り上がっているのは知られているが、スコットランド警察の8管区もまもなく統合されて、ポリス・スコットランドとなるのだそうだ。ロウジアン&ボーダーズ警部本部の本部長もイングランドの新しい役職に異動するなど、警察組織が大きく揺らいでいる最中である。

ちなみに、本書に登場するフォックス警部補は、ランキンのもう一つのシリーズとなっているキャラクターである。
ルールに従わず、自由奔放に捜査を進める一匹狼リーバスに対して、警官の内部規律違反に目を光らせる立場だったフォックスという、敵同士といってもよい間柄の二人がどうやってチームを組むことができるのか。
だが、フォックスのいた内部監察室も、同じ警察官でありながら、他の仲間に忌み嫌われる存在だったので、こちらも一匹狼ではあるのだ。
そこが本書の面白いところである。
その間に入って、ヤキモキするシボーン警部。

さらにスコットランド司法次官として、スコットランド法曹界のトップに就任したエレノア・マカリが、なにやらフォックスに何事か意を含ませている様子だ。

リーバスとシボーンが手掛けることになったのは、エジンバラ空港からほど近い田園地帯の道で起きた自動車事故である。
意識不明で発見されたのは、ジェシカ・トレイナーというエジンバラ大学の学生。果たして本当に彼女が運転していたのか・・・。
実は運転していたのではないかとリーバスらが疑う彼女のボーイフレンドは、スコットランドの法務大臣の息子だった。スコットランドは英国から独立すべきだと主張している政治家だ。
一方、ジェシカの父親も、ロンドンの実業家でロンドン警視庁の上層部に知り合いがいるという。なにやら政治絡みのきな臭い匂いが。

やがて、この事件が過去の警察の闇の部分へとつながっていく。
実は、犯罪捜査課に異動してきたフォックスは、新任司法次官のマカリからある事案の捜査を頼まれていた。
それは、30年前のサマホール警察内にあった、「裏バイブルの聖人たち(セインツ)」と呼ばれる秘密結社のような警官たちのグループが捜査の過程で行っていたさまざまな不正行為である。
当時の警察は、令状なしの捜索、脅し、暴力、取引など、起訴~有罪に持ち込めるようなら、なんでもあり、だったのだ。

30年後の今、一事不再理の規則が緩和され、過去には有罪に持ち込めず、無罪放免となっていた殺人犯を再び捜査できることになったのだ。その陰にはサマホールのセインツたちが絡んでいたらしい。
その中心人物だった警部は、退職して成功した実業家となっている。
その部下たちも、引退しているが、再捜査の手が伸びるとあって、戦々恐々としている。
リーバスも新人としてその端くれだった。下手をすれば、リーバスの身分も危うくなる。仲間を裏切ることになるのか…。

こうして、1件の自動車事故と30年前の警察の不祥事と、ふたつの事案の捜査が絡み合いながら進んでいく。

イアン・ランキンのリーバス物といえば、なんとなく煤けたエジンバラの街並みとスコットランドの鉛のような曇り空を思わせる重苦しい雰囲気が漂っていたと思うのだが、しばらくぶりに読むと、心地よいテンポで話が進んでいくことに感心した。
シボーンやリーバスが勤務するゲイフィールド・スクエア署の刑事たちが、煙たい上司の裏をかいてリーバスらをあ・うんの呼吸で助けるのも面白い。
なんとなくテレビドラマを見ているようだ。

ちなみに、スコットランドでは、ドラマ”Rebus”が放映されており、シリーズ1と2はジョン・ハナーが、シリーズ3からはケン・スコットがリーバスを演じて、どちらがよりリーバスに近いかという論争が起きたようである。fbvscoela71si7mir72a Rebus.jpghttps://drama.uktv.co.uk/shows/rebus/
私はDVDでハナーのリーバスしか見たことがないが、ハナーはリーバスにしては線が細すぎ、若すぎて重厚感に欠けるように思った。
写真だけではケン・スコットに軍配が上がりそうだが、一度見てみたいものだ。
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フィンランドの森の物語 [おすすめシネマ]

6年も前に公開された映画のDVD.
積読本ならぬ、積読ビデオになっていたのをようやく観た。
クラウス・ハロ監督・脚本の『ヤコブへの手紙』。

75分という短い映画ながら、フィンランドのアカデミー賞の最多4部門を受賞し、アメリカのアカデミー賞外国語映画賞にも出品された作品。

静かな映画である。
主要な出演者もたった3人。
フィンランドの片田舎の森に一人で住むヤコブ牧師と刑務所から恩赦で出所した女性レイラ。それに、毎日ヤコブ牧師に手紙を運ぶ郵便配達人の3人だけ。
それぞれが個性的。

時代は70年代。
12年間刑務所暮らしをしていたレイラは、仕事と住まいを提供してくれるというヤコブ師のもとをバスではるばるたずねていく。
湖のほとりに立つ教会からさらに、森の中を歩いてたどり着いたのは、白樺の木々に囲まれた古ぼけた家。
迎えてくれたのは年老いたヤコブ師1人。
彼の目が見えていないことにレイラは気づく。
彼女に課せられた仕事は家事ではなく、ヤコブ師に悩める人々から毎日届く手紙を読み上げ、それに返事を書くというものだった。

嫌々ながら仕事をこなすレイラ。
いかにも70年代の服装をした、だらしなく太った中年女性を演じるカーリナ・ハザードという女優さんが、無表情の中にいかにも長い刑期を刑務所で過ごしていた人と思われるふてぶてしさと狡猾さをにじませて、うまい。
なにしろ、手紙を読み上げるほか、ほとんどセリフはないのだ。

案の定、届いた手紙を黙って捨ててしまうレイラ。
毎日、自転車で手紙を届けに来る郵便配達人は、刑務所帰りのレイラに不審と警戒の念を抱くが、身体のでっかいレイラにとても太刀打ちできない。
レイラとやせて小柄な郵便配達人のやりとりも面白い。

そんな中、突然、手紙が配達されなくなる。レイラは郵便配達人を追いかけ、問いただすが、「来ないものは来ない」と言って逃げていく。
手紙が来なくなったヤコブ牧師はふさぎ込み、日に日に身体が弱っていく。
レイラはヤコブ師が教会に行っている間に黙って出て行く決心をして、タクシーを呼ぶ。
そして、タクシーに乗り込んで「どこまで?」と運転手に問われて愕然とするレイラ。
タクシーは去っていく。
言葉はないのだが、レイラにはここよりほかに行く場所がないのだということがヒシヒシと伝わってくる。

やがてレイラは、届いた手紙を読むふりをして、自分の秘密を語り始める…。
そして、ヤコブ牧師がなぜ恩赦を受けたレイラを引き取ることにしたのか、その秘密も明かされる…。
ここで号泣(私)。

その後の展開を記すのは、控えておこう。

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