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家仕舞い [こんなことあんなこと]

今日、実家の家仕舞いをした。

これまで毎週通って、姉と一緒に少しずつ整理をしてきたが、1月いっぱいで不動産屋さんに引き渡すため、最後はリサイクル業者を頼んで、家の中を空っぽにすることになった。

売れるものは売り、譲れるものは譲り、捨てるものは捨ててきた。
なので、2、3時間もあれば済むだろうと思っていたが、甘かった。

10時前にトラック3台が到着。スタッフも5、6人。
タンスや本棚、ベッド、ふとん(たくさん)、机、ソファー、サイドテーブル、ダイニングセット、エアコンなどなどの大物家具のほかに、電器製品、本、服や靴、食器、人形、化粧品、洗剤や薬品、掃除道具など、細々としたものが出るわ出るわ。
タンスの裏にはびっしり綿ぼこり。
あれだけ捨ててもこんなにあったかと驚くばかり。
それでもさすが本職の方々。狭いところをせっせと運びだす。
さらには、外の大きな物置、エアコン室外機、物干しや植木鉢や棚の類も運ぶ。
木の枝が邪魔になって運び出せず、お隣さんから枝切り鋏を借りて、枝切り。
お昼休みを入れて、終わったのは午後4時。
6時間の大仕事。
やっと終わって、3台のトラックが出て行った直後、門扉の脇の灯りが残っていることに気づき、電話で呼び戻す。

48年前、姉と二人で、九州から実家の荷物を積んだトラックを新居に迎えたときのことを思い出す。
そして今、やっぱり姉と二人で残りの荷物を積みこんだトラックが出て行くのを見送った。
ほぼ半世紀にわたるこの家の歴史がこうして閉じた。

母が亡くなってから、よくひとからお寂しいでしょうと聞かれるが、
素直に「はい、そうですね」と言えない複雑な気持ちがある。
正直に言ってほっとした気持ちもあるし、言葉にとてもしにくい。

だが、この土地との縁がこれですっかりなくなってしまうと思うと、それは悲しいし、寂しい。
育った九州の土地にもすでに家は影も形もなくなっており、親しい友達も亡くなってしまったりしてつながりがほとんどなくなってしまった。

こうやって人生が終わっていくのかなあと思うと、それも寂しい気持ちになる。
時間が過ぎるのが本当に早すぎて、ついていけない感じ。
あとは、自分自身がどうしていくのか、真剣に考えなくちゃいけないのだな。


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本屋大賞の本を読む 本屋の話 [本のはなし]

本が好きなので、本屋や図書館がらみの本はたいてい読みたくなる。
今回は、『書店主フィクリーのものがたり』(早川epi 文庫)という本。
帯に本屋大賞第1位(翻訳小説部門)と謳ってある。
本屋さんだから本屋が主人公の小説は、ぜったいはずさないだろうな。

著者は、ガブリエル・ゼヴィン。
ネットには、「1977年ニューヨーク生まれ。ハーバード大学を卒業したのち、映画の脚本の仕事に携わる。」としか紹介がない。
その後、ヤングアダルト小説を書き始めて、2014年にこの本がベストセラーになったらしい。

まだ30代のときに書いたものにしては、えらく老成した主人公だ。
プリンストン大学の大学院でエドガー・アラン・ポーを研究していたという主人公フィクリーは、その一方で、大学のアカペラ・グループでは第2テナーを務め、ロックバンドの歌っていたという人物。インド人の血が混じっているらしい。

妻の助言にしたがって、妻の故郷アリス島に移住し、そこで「アイランド・ブックス」という本屋を開く。2階が住まい。
この本の、「本屋のない町なんて町じゃない」という言葉が、ずしっと響く。
どこも「町じゃない町」ばかりになって来つつあるから。

ここでは著者を招いての読書会なども開催している。
読書クラブって本当にアメリカの文化なのね。
以前、刑務所で読書クラブを開いている人の本を紹介したけど、ここでは警察署長。
島の警察署長ランビアーズは、この本屋が出来てから本に親しみだし、今では署員のための読書会も定期的に開いている。
ただし、本が売れるのは観光客が島に押し寄せる夏の間だけ。

ところで、この本のプロローグは、出版社の販売員アメリアがフェリーでアリス島に向かうシーンから始まる。
本好きのアメリアはすでに婚期を逃し、なかなかよい相手にも巡り合わないでいる。
彼女の向かった本屋の看板には、こんなことが書いてあった。

     島の本屋
   創業1999年
 アリス島唯一の優れた文学書籍販売元
 人間は孤島にあらず、書物は各々一つの世界なり

ちなみに、人間を孤島に例える言い方は、英語の文章によく出てくる。
もちろん、人間は孤島ではないというふうに、なのだけれど。
『ロビンソン・クルーソー』や『キャスタウェイ』など、孤島に流れ着いた人の物語もいろいろあるし。
日本では鬼ヶ島に鬼退治に行ったり、島流しにされたりするけど、島そのものを人間に見立てる発想ってないような気がする。

本筋に戻ります。

アメリアが訪れたアイランド・ブックスの店の中は、本が所狭しと積み上げられ、ちょっと動くと本の山が轟音を立てて床に崩れ落ちるありさま。
愛妻を車の事故で亡くしてから、店主のフィクリーは酒浸りの毎日だったのだ。
偏屈ぶりが講じて、本屋も閑古鳥が鳴く状態に。
話も聞かずに追い払おうとするフィクリーに、食い下がるアメリア。
ヤングアダルト小説なんて、と鼻もひっかけないような物言い。
著者のゼヴィンは、ヤングアダルト小説出身だから、自分を笑っているわけだ。

酔っては夢の中で今は亡き妻と会話している孤独なフィクリーにある日、不思議なことが起こる。
店唯一の稀覯本だったエドガー・アラン・ポーの『タマレーン』が盗まれたのだ。
同時に、彼に失神発作の症状があることがわかる。
だが、盗難騒ぎのおかげで、店は物見高い客で一時的に賑わう。

そんな時、店の中に褐色の肌の赤ん坊が置き去りにされたのだ。
マヤ、2歳。赤ん坊というより、幼児だ。
エルモの人形に手紙がついていた。(エルモの人形、私ももってる!)
本好きな子になってほしい。だから本がたくさんあるところで、そういうことに関心のある方たちの間て育ってほしい…と。

フィクリーはマヤを養子にすることに決める。

実はこの小説、物語と連動する形で、章ごとにフィクリーの好きな小説の感想が書かれている。
読んだことのない本も多いけど、本好きにはこれもワクワクするところ。
なかなか含蓄に富んだ言葉もある。
この感想文が、マヤへの手紙の形になっていくのだ。
手紙といっても読書指南といったところか。

マヤを引き取って育てるフィクリーに、アメリアは惹かれ、二人は愛し合うようになる。

とまあ、本のうんちくのあれこれの合間に、フィクリーとアメリアの恋の進展が描かれ、マヤの賢さも描かれ、さらには警察署長ランビアーズの恋などもあり、なかなかハートウォーミングな、ときに胸が熱くなる、そんな小説なのである。

社会派のミステリーにいささか疲れたところで
新年に読むにはもってこいの良い本だった。


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おかたづけ [こんなことあんなこと]

ほぼ一週間というもの、大みそかと元旦に根津神社に出かけたくらいで、あとはずっと自宅にこもって誰とも会わず、しゃべらずの日々。
周辺の商店は、3が日が過ぎてもまだお正月休みのところが多く、お買物もできない。
(セブンイレブンだけはやっていたが)
今日、ようやく近所の小さなスーパーが開いた。
東京と言ってもお正月は不便だ。
だからこそのおせちなんだろうけれど、すっかり忘れていた。

昨年末は、実家から運び込んだ段ボール箱の片づけであけくれ。
そのためのワイヤーの棚を2基購入。
女性でも一人で組み立てられますということで、やってみたが
何とか形にはなったものの、ちょっとちゃちで若干棚が斜め?

あとは本や衣類を処分して、空きスペースをつくるしかない。
クラシックのCD30枚はBook-Offにもっていき、940円。
ほとほと困るのは、ペーパー類。
プリントアウトした大量の資料を、改めて内容ごとに分類はしてみたものの、
ついつい手が止まり、読んでしまう。結局、はかどらない。
しかも、それで減るわけでなし…

会議の資料なんか、思い切って破棄してもよいのだが、
そうしたものに限って、後で必要になるのは、何故なんだろう。

USBに保存しても、けっこう探すのが厄介。
保存したことを忘れていたりするからなおさら。

身の回りには、みんな不要と言えば言えるものばかり。
必要なのは断捨離か…

母は、晩年、やたら片づけまくっていたけれど、それでも呆れるほど物が溜まっていた。
住まいが広ければ広いほど、物は溜まる。
すると、収納用品を購入する→しまい込み、忘れる→ないと思い、また買う・・・の悪循環だったのだ。

棚を買ったのは、間違いだったか…

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年末の中華街 [こんなことあんなこと]

ほぼ実家の整理がついて、今年は初めて実家に行かないお正月。
姉に秋田に誘われたけど、寒いところはとんでもないので、今年は一人で過ごすことにした。
でも、今日は横浜に住む甥っ子夫婦を誘って、石川町の広東料理のお店に行ってみた。
中華街でどこかおいしいお店を教えて、と横浜の友人に尋ねたら、
中華街においしい店はない!おいしい店はみんな東京にある!という驚くべき返事。

それでもと、石川町の鴻というお店を紹介してくれた。
こじんまりとした家庭的な雰囲気。
東京のホテルで修業したシェフが店を継いで、新しくしたみたい。
リセンヌ小路という場所にあった。

最初に頼んだのが、今日のおすすめ料理の「よだれ鶏」という料理。
焼いた鶏に甘辛くスパイシーな黒酢のたれがかかって、これが絶品。
パクチーが載ってて、これが美味しさを引き立てていた。
お店のおかみさんのお勧めで、残ったたれを水餃子に絡めて食べたら、これも絶品。
白麻婆豆腐は、色白なのに、ものすごいからい!青とうがらしを使っているんですって。
野菜とホタテの炒め物もおいしかったし、最後の杏仁豆腐もなめらかで、白いプリンのようだった。
帰りに中華街に寄って、いろいろなお茶を購入。ついでにタイガーバウムも。
肉まんは夕飯に。

それにしても、40年前に来た時に比べると、中華街の何という拡大ぶり!
だってあの頃は、まだ日中国交回復間もない頃で、そんなに中国人が日本中にあふれているなんて考えられなかった時代だものね。

70年代の半ば、浦和でべ平連の人たちと一緒に中国語教室を開き、
NHKの教育テレビで中国語講座の先生だった女性を呼んで、みんなで勉強しあった。
そのつてで、中華街の知り合いのお店に連れて行ってもらったのだった。
もっとも目的は、横浜港に入った中国の船を訪問して、中国人船員との交流をすること。
当時は、たばこが贅沢品だったらしく、たばこをふるまわれたりした。吸わなかったけど。
他にも、当時話題になった中国雑技団の公演の手伝いもして、楽屋裏で衣装にアイロンをかけたりもした。

文化大革命の時代だが、今でも記憶に残っていることがある。
若い中国人女性に将来のことを聞いた時、どのような職業に就きたいかという質問に、
「上の人が塩梅してくれる」。
「結婚はどんな人と?」と聞くと、それにも「上の人が塩梅してくれる」と答えたのだ。
上の人というのは、党の人らしい。共産党である。
「障害者」という言葉が通じなかったことにも驚いた。
街で車椅子に乗った人をみることなどないようだった。
まだまだそれどころではない経済状態だったのかもしれない。

そんなこんな経験から『天の半分』というフランスのフェミニストたちが文革時代の中国を訪問して、中国での女性の状況を報告した本を翻訳したのだった。
ちなみに『天の半分』というのは、毛沢東が天の半分は女性が担っているといった言葉から来ている。
でも、フランス人フェミニストの目には、そうした表向きの掛け声の裏に、伝統的な中国文化が抜きがたく残っていることがはっきりと映っていた。
なにせ、纏足の文化だったのですからね。
池谷薫監督の『延安の娘』にも、そうした現代中国の一面がよく描かれていた。
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NYの光と影 [おすすめシネマ]

このところ、土日も何かしらイベントがあって、ずっと休みがなかった。
月―火と2日続けてオフになり、ダラダラと撮りためてあった2本の映画のビデオを見た。

それがたまたまNYを舞台にした映画。
しかも、両方ともアパートが舞台で意味をもつ。

一つは、1992年製作の『ルームメイト』。
こちらは高級アパートに住む、かっこいいキャリア・ウーマンが主人公。
バツイチの恋人と暮らしていたが、前妻と寝たことを知り、追い出してしまう。
部屋代を賄うために、ルームメイトを新聞で募集し、黒髪で背の低い女性(冴えない女のイメージなんでしょうね)が応募してくる。
一緒に暮らし始めるが・・・・。

ということで、こちらは主人公が心理的に追い詰められていく、サイコスリラー。
でも、なんだか最初から筋が読めてしまうようなストーリー。
追いつめられていく主人公のほうが、なんておばかさん、としか思えない。

で、もう一つのほう。2003年の『イン・アメリカ―3つの小さな願いごと』。
これは、ジム・シェリダン監督の実体験に基づく、自伝的なストーリー。
私などの世代には、『マイ・レフトフット』が記憶に残る監督である。
監督の2人の娘が脚本を担当している。

『イン・アメリカ』のストーリー。
アイルランドの貧しい一家が、カナダを経由してアメリカ、NYへ車でやってくる。
たどり着いたのは、ジャンキーたちがたむろする一角の、古いボロボロのアパートの最上階。
エレベータはあるが、壊れている。
屋根は壊れ、ハトが寝床にしていた。
一家は、そこを自分たちの手で改修し、住処としていく。

夫ジョニーはNYで俳優になるべくオーディションを受けては落ち続け、タクシー運転手などの仕事をして何とか食い扶持を稼いでいる。
妻サラは、アイルランドでは教師をやっていたが、NYでは採用されず、ダイナーのウェイトレスをしている。

夫婦には2人の幼い娘がいる。その長女クリスティの目を通して、この映画は語られていく。
クリスティは常にビデオカメラをもち、撮り続けている。
妹のアリエル(アリー)は、映画のETが大好きなおしゃまな女の子。
(『ルームメイト』の主人公の名前も、偶然にアリーだった!)

こちらの2人は、本名から察するに本当の姉妹らしい。
二人ともものすごい演技派で、お姉ちゃんは美人になりそうな雰囲気だし、
妹のほうは天真爛漫さが何とも言えず可愛い

実は、この一家にはもう一人フランキーという男の子どもがいた。
だが、階段から転げ落ちたことがきっかけで(そんなことあるか?)脳腫瘍ができ、
2歳で死んでしまったのだ。
それが一家がNYに移住しようと決意したきっかけだった。
二人とも、幼い息子の死を受け入れられないでいるのだ。

お金がない一家だが、ためたお金をつかい、思い切って遊園地に行って楽しもうとする。
アリーの好きなETのぬいぐるみを手に入れるために、ジョニーは持っているお金をありったけ、ボール穴入れゲームに使い果たしてしまうのだ。
妻サラもいったんはためらうものの、ぜったいに手に入れて見せるという夫に、全財産を使わせる。そんな豪気さにびっくり。

やがて、サラは妊娠するが、おなかの中の児と死んだ息子とが区別がつかず、混乱していき、胎児も自分も危険な状態になるが、サラはぜったいに生むといって聞かない。

このアパートに一人の黒人が住んでいる。
ドアには赤いペンキで大きくKeep Away! と書いてあり、人を寄せ付けない不気味な住人だ。
だが、怖いもの知らずのアリーたちは、ハロウィーンの日にこのドアをたたき、この男の部屋へ入っていく。
彼の名はマテオ。売れない画家だった。
実は、彼は不治の病にかかっていた(エイズとははっきり言っていないが、たぶん)。
子どもたちとサラはマテオと親しく交わるようになるが、サラと喧嘩して飛び出したジョニーは、マテオに怒りをぶつけ、妻に気があるのだろうと詰め寄る。
マテオは、サラも子どもたちもジョニーも、一家すべてが好きだという。

だが、妻の出産が迫るなか、マテオの死も近づいていた…。

この映画には、前の映画とちがって、悪い人は出てこない。
ジョニーがいつもなけなしのお金をあげているのに、金を脅し取ろうとするジャンキーもいる。
だが、反撃されると泣きだす情けなさ。
ジョニーもどうしようもない男だが、こうと決めたことは貫き通す頑固さがある。
でも、息子を亡くした悲しみや心の痛みを表現することはできない。
妻の悲しみもわかっていながら、通じ合うことができないのだ。

そうしたなか、救いになるのが娘たち。
最後のほうで、長女のクリスティが自分がどれほど親たちを支えていたかをコンフロントする場面がある。
もう、そのあたりになると、涙、涙である。

私の大好きな映画E.T.が出てくるところと言い、バックグラウンド音楽にドアーズの”Turn,Turn,Turn”が出て来たり、もう私のハートにはまる要素だらけ。
よかった。



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アルコール依存症と探偵 [本とテレビ番組]

アルコール依存症の探偵と言えば、ローレンス・ブロックのマット・スカダーが有名。
酒浸りになる心理と言い、AAのミーティングの様子と言い、そのままアディクションの教科書にしてもよいくらいだ。
しかも、20冊近いシリーズなので、その経過や浮き沈みがよくわかる。

最近は、海外のテレビドラマではアルコール依存症や薬物依存症の人物がよく登場する。
そこにはAAも必ずついてくる。
現代ニューヨークに舞台を移した、シャーロック・ホームズもの『エレメンタリー』のシャーロック・ホームズも薬物依存のためのAA(NA?)に参加していて、そこでなんとか回復の途を歩んでいる。ときどき、スリップするが。
ちなみに、このドラマのジョン・ワトソン役は、ジェーン・ワトソンという中国系アメリカ人に置き換わっていて、ルーシー・リュウが演じている。
もと外科医で、患者を手術で死なせたために医者を辞め、ホームズの付き添いの仕事から、探偵のパートナーとなった。
ちなみに、ジェーンの父は統合失調症で、治療を拒否していてホームレスになっている。
こういう設定が人気ドラマに普通に出てくるところがすごい。

で、本日紹介する本は、女性のアルコール依存症の探偵。
シーナ・カマル著『喪失のブルース』(ハーパー・ブックス)。
舞台は、カナダのバンクーバー。私が初めて訪れた外国の街。70年代のこと。なつかしい。
カナダを舞台にしたミステリーってそんなになかったような気がする。

主人公のノラ・ワッツは私立探偵のレオとフリージャーナリストのセブが運営する事務所の調査助手。
部屋を借りるお金を惜しんで、事務所の地下に勝手に住み着いている。
事務所の裏のゴミ箱をあさっていた狼の血を引く野良犬をウィスパーと名付けて飼っている。
なかなか優秀なメス犬なのだが、すぐに欲情するのが玉に瑕。そのたびに落ち込む(犬が)。
ウィスパーを飼い出してから、ノラはお酒を辞めた。

ノラがアルコール依存に陥ったのは、まだ10代の頃、レイプされ殺されそうになったという事件が原因だった。その時の記憶はないのだが、悪夢に悩まされている。
昏睡から目覚めたとき、彼女は妊娠していた。
娘を出産してすぐ養子に出したのだが、その養親が行方不明になった15歳の娘ボニーを探して電話をかけてくる。
それまで娘のことは考えないようにしていたノラだが、一人で捜索を始める。
なぜ、ボニーは行方不明になったのか?
その足取りを追ううちに、やがて15年前のレイプ事件との接点が見えてくる…。

実はノラは、アボリジニ(アメリカでいうインディアン)の血を引いている。
妹は美人で賢く、環境問題の活動家で酒におぼれホームレスとなった姉を軽蔑している。

ノラはAAのスポンサー(先輩メンバーであり支援者)のブラズーカに助けを求めるが、味方と思った彼が実は・・・?
ノラはお酒の誘惑に勝てるのか?
たいへんなアクションもあり、満身創痍でもがんばるのだ。

隣国アメリカに比べれば、平和で英国流の社会福祉が行き届いていると思われているカナダだが、やはりホームレスや麻薬の問題は深刻なようだ。
中国人富豪による土地の買い占めなどの問題も登場する。

著者のカマルは、カリブ海の国の出身で、幼い頃にカナダに移住したのだそうだ。
トロントで育ち、大学卒業後はホームレス問題に携わり、最近は映画とテレビ業界での調査報道のための調査員を務めていたりするらしい。
その経験がこのミステリーを生んだようだ。


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言い返そう! [本と映画のはなし]

実は前回アップした西加奈子さんの『サラバ!』は、つい最近みた映画も一緒に加えて感想を書いてみるつもりだった。
ところが、『サラバ!』の話が思いのほか長くなってしまったので、2回に分けることにしたのだ。

その映画、タイトルは『TALK BACK~沈黙を破る女たち』という、
私のFB「友達」でもある坂上香さんが製作・監督した、ドキュメンタリー映画である。

坂上さんと知り合ったのは、10数年前に彼女から治療共同体についての勉強会で話をしてほしいと頼まれたのがきっかけだった。
その後、逆に大学で講演をお願いしようと思っていながら、なかなか実現できないまま、私が退職してしまったので、お会いできる機会もないかと思っていたら、近所のミニシアター、シネマ・チュプキ田端でこの映画の上映会があり、そこで彼女のトークショーも行われるというので、行ってみることにした。

この映画館、驚いたことに本当にミニで、20数席しかない。
関心のある仲間たちが集まっての上映会にはもってこいの場所であった。

で、この映画である。
公開されたのは2013年というから、すでに4年が経っていた。
さらに彼女がこの映画の製作を開始してから完成までに8年かかったというから、私が会ったころはもう、撮影を始めていたようである。

彼女は、終身刑や死刑を言い渡された重罪犯(多くは薬物依存症者)についての映画『ライファーズ』を製作した後に、この映画に取り掛かり、やがて津田塾大学に職を得て、研究費をこの映画に充てていたらしいが、大学のあまりの多忙さに(そうだろう!!)、結局辞めて、この映画の製作に専念することにしたのだという。

日本と違い、海外では刑務所での収監者たちの更生プログラムとしての表現活動が豊富にあり(以前、このブログで取り上げた「読書会」などもその一つ)、坂上さんはそれらを一つ一つ調べては訪ねて行ったという。
そうしたなかで出会ったのが、ローデッサ・ジョーンズというアフリカ系アメリカ人女性が代表を務める「メデア・プロジェクト」という団体。だが、取材は受け入れてくれたものの、やはり映画にするとなると、なかなかOKが出るまでには、時間がかかったそうだ。

メデアは、薬物依存や犯罪で刑に服した女性たちが、自分たちのこれまでの体験を言葉(詩)にして語り、踊り、自らの内にあるものを表現するという活動を行っている。
刑務所の中で希望者を募り、それぞれが自分の言葉や表現法を見出すのを助けるのだ。
最後には、ニューヨークやサンフランシスコなどの市内の劇場で一般の人々に向けての公演を行う。刑務所から手錠をはめられた受刑者たちがバスに乗せられて劇場に行き、戻ってくるのだという。

この映画は、そうしたメデア・プロジェクトに参加した女性たち一人一人を追う。
彼女たちの多くはアフリカ系だが、ヨーロッパのアングロサクソン系、アジア(日)系なども参加している。たいがいは貧しい家庭で育っているが、中にはそうではない人もいる。
だが、共通しているのは、過去に悲惨な性的虐待やレイプなどの外傷体験をしているということである。その結果、ほとんどがHIV+となっているのだ。
AIDSを発症し、余命わずかな人も仲間にいる。

だが、そうした悲惨な体験は、言葉にすることができない。
中には、記憶すらもなく、この活動をするうちに、凍り付いた記憶が溶け出し、よみがえってきたと話す人もいる。
まずは、日記のように書いてみるのだが、それを読み上げるのでさえ弱々しい声で、躊躇する気持ちが透いて見える。
だが何度も読むうちに、声が変わっていくのだ。
さらに、内容もだんだん体験の本質に近づき、真実味が加わっていく。
ごまかしは徐々にはぎとられる。

そして、その声に合わせて身体を動かし、他のメンバーたちが加わって歌い、踊り始める。代表のローデッサも加わり、最後は大迫力の”爆発”だ!

この映画のタイトルの「TALK BACK」というのは、「言い返す」「異議申し立て」のような意味だが、このメデアの公演の後に、いつも行う、客席の観客と出演者との質疑応答のセッションもこう呼ばれている。
こうして、演じる人ー観る人の垣根を越え、人間としての普遍的体験の理解へと進むのである。

シネマ・チュプキでの上映会の後も、坂上香さんとダルク女性ハウスの上岡陽江さんがトークショーを行い、観客も交えての「トークバック・セッション」となった。

実はこの映画は「市民参加型映画」と銘打たれているのだが、編集にダルクなどの当事者たちが加わって、その意見を取り入れながら試写と編集を繰り返し、完成させたのだという。

そこに関与するすべての人が、常に率直な意見を求められ、一緒に何かを創り上げていく…。それこそが治療共同体であり、あらゆる回復を支える活動に必要なものなのだ。
言葉とエンパワメント。

人に隷従して生きていく中で、性的に搾取され、薬物に依存することで現実から逃避するしか生き延びるすべがなかった人が、そんな生き方にNO!と言い、自分はこういう人間だ!と自己主張し始めるのだ。

この映画を観ていて、私が「自分には故郷がない」と言っているのは、実はみずから故郷をつくることを回避してきたのではないか?という疑問が湧いてきた。
それは私にとって、新しい疑問。ぎくりとした。









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『サラバ!』で考えさせられた [本のはなし]

前から読みたいと思っていながら、分厚い単行本2冊を読み通すエネルギーがなさそうで、文庫本になるのを待っていた西加奈子著『サラバ!』が、3年たってようやく文庫本3分冊になったので、さっそく購入して読んだ。
彼女の本は初めて読む。

帯も表紙の裏のあらすじも読まず、まったく予備知識なしで読みだしたので、第1章「猟奇的な姉と、僕の幼少時代」の次が、第2章「エジプト、カイロ、ザマレク」というタイトルだったので、いったいこれは何の話だろうと戸惑った。
なにせ、日本の小説の章のタイトルで、外国の地名-しかもエジプト、カイロ、ザマレク!―が出てくるなんて予想もしていなかったので。

実は、今から30年以上も前に、商社に就職した友達がカイロに語学留学していたので、2週間ほどエジプトを旅したことがあった。
なので、ザマレク近辺の様子は思い浮かべることができる。街に響き渡るコーラン(アザーン)の放送の声も。ナイルに浮かぶ白い帆の小舟ファルーカも。

著者の西加奈子さん自身がイラン・テヘランで生まれ、カイロで育ったという経歴を知って、なるほどどうりで街の風景などの描写が詳しいわけだと納得。自身の体験から描いているのだろう。

エジプトに行った時、「ナイルの水を飲んだ者は、かならずナイルに戻ってくる」と聞いたので、いつかまた訪れてみたいと思っていながら、その後のエジプトでのテロ事件や政情不安で、とても行けそうもないと思っていたので、この小説の中で再訪できたような気がして嬉しかった。

そんなことに驚きながら読み始めたのだが、物語はそうした旅情とはかけ離れた(ファンタジーと言ってもよいような)ドラマが、激動の世界情勢と主人公圷(あくつ)歩の一家の物語が交錯する形で展開していく。

歩は、父の海外赴任先のテヘランで生まれ、イラン革命でいったん帰国し大阪に住むが、すぐに新しい土地にも溶け込んだ歩と違い、姉貴子はなかなかなじむことが出来ず、孤立を深めていく。

姉はガリガリに痩せていて、その不器用な態度に同級生から「ご神木」というあだ名を頂戴するような子どもで、しょっちゅう怒りにまかせて部屋中を破壊したり、部屋に引きこもったりするのである。
母親との関係は最悪なのだが、この母親も、ほかの人の気持ちには無頓着な自己中心の女性として描かれる。

一家の悩みの種は、奇矯なふるまいをする「猟奇的な」姉である。
周囲のことは一切お構いなしにひどい騒ぎを起こすこの姉を見ながら、歩はひたすら目立たないよう、まわりに気に入られるよう、「良い子」として生き延びていこうとする。
彼は、姉とは対照的に顔立ちもよく、どこに行っても人気者である。それを自分でもよくわかっている。
こうした歩の、表向きの顔とは裏腹の、醜い顔、内心の意地の悪い思いがしばしば吐露されているのだが、実際には相手の反応が読めるので、口に出して言わなかった、ということが繰り返し記述される。

それでもカイロでは、歩はヤコブというコプト人の少年と親しくなる。言葉の壁を越えて(というところがミソ)、理解しあえる友となるのだが、両親の離婚でエジプトも後にせざるを得なくなる。
ここで「サラバ!」の意味が分かり、涙。

日本に帰国後、母は次々に恋人をつくり、姉は近所のおばちゃんが教祖とされた正体不明の宗教にのめり込んでいく。そこへ阪神大震災が起こる。
逃げるように東京に移った歩は大学生になってからも、あいかわらずモテモテで、次から次へと女性と関係をもつ。

この小説の中で、このような二面性をもつ人間として歩は描かれるのだが、醜い内心を(文章で)さらした後に、決まってその醜さを自分から指摘するのである。まるで言い訳するように。
このパターンが繰り返されるので、なんだかずるいなという気がしてきた。腹黒い嫌な奴なのに、自分は腹黒いとわかっているから許して(本当はいい奴なんだ)、と言っているようで。

この後の話はネタバレになるから書かないが、歩にも大きな変化、しかも自分ではどうしようもない変化が洗われることだけは言っておこう。
そして、対照的な姉と弟、自己中心的な母親と出家する(徹底的な愛他主義の)父親の対比などを通して、自己とは何かということが問われていく。
自分の欲求のままに生きるのが、正しい自己としての生き方なのか。他人の考えや期待に沿って生きるのは、だめなのか。
自己と他者との関係について、深く考えさせられた小説だった。

とても面白く感動もし、著者の力量に感服もしたが、1か所だけ気になったところがあった。
それは、最後のほうで大人になった歩が姉と対峙するシーン。

姉がかつてのめりこんだ教会の建物の跡地に建った2棟の大きなマンションを背に、姉が立っているのだが、「西日が背中から当たって、姉の顔を影にしていた」と描写されているのだ。
大きなマンションがあって、それを背にして立ったら、背中に夕陽は当たらないだろうに・・・。
この場面がクライマックスと言ってもよいだけに、こんなことに引っかかっても仕方がないと思いながら、でもね・・・。

と書いて、最初投稿したのだが、後で読み直すと、背中は歩の背中なのかもしれないと思えてきた。
つまり、姉の前に立つ歩の背中に夕陽があたって、目の前の姉の顔が(自分の)影になっている・・・と考えると、矛盾はない。なるほど、これならすっきり。
でもなぜ、大事な対決シーンなのに、作者は姉の顔を隠そうとするのだろう…。
歩自身へのコンフロンテーションを行うのは、姉でも他者でもなく、歩自身だということの暗喩なのだろうか。
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フーテンの寅さんは疲れる。 [こんなことあんなこと]

10月に愛媛の松山、11月の第1週に長野の松本、翌第2週は兵庫県の神戸・・・。
松本行の直前になって、ホテルの予約をしてないことに気づき、慌てて探したが、結局バカ高いホテルのツインしか取れなかった。神戸も同様。

最近はどこでもホテル代が高い!外国人観光客が増えて、どこもホテル不足なのだ。
朝食も待たされることが珍しくない。早起きしなければ、予定に間に合わないことも。

1月は、横浜と千葉の近場の仕事でひといき。
2月は、第1週に小倉で2つ仕事が入っている。川越でも。
3月にはまた、福岡。芸能人みたいだな。

おまけに11月~1月は、大学の非常勤の講義が7回。
グループと個人面接がこれに加わり、並行して週1回の実家の整理。

やっかいなのが、学会で頼まれる講演。
普通なら、講演用の資料づくりで済むはずが、その前に抄録集の原稿、講演が済めば学会誌に掲載する原稿を頼まれる。
大学の講義も90分で120分の2時間分にカウントされるのは、その前に準備があるという理由から。
学会で60分の講演をするためには、移動時間も含めると、トータル、かなりの時間を費やすことになる。
呼んでいただけるのはありがたいこと、文句を言ってはいけないとは思うものの、つい。

甥っ子に、「いつまで働くの?」と聞かれて、そうだよなあと思う。
定年になったんだもの、もっとゆっくりしてもいいはずだ。
仕事でない旅行もしたいし、ゆっくり海でも眺めていたいと思うのだが。

週1回のブログの更新が遅れたことの言い訳を書き始めたら、こんな愚痴ばかりになってしまった。
本当は原稿を書かなければいけないのだけど。
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話題のアメリカのTVドラマ『This Is Us 36歳、これから』 [テレビ番組]

『ダウントンアビー』が終了してから、NHK総合の海外ドラマなどは見ないでいたのだが、たまたま、AAのミーティングのような場面をやっていて、ついつい引き込まれてしまったドラマがあった。『This is us 36歳、これから』である。
毎週日曜 午後11時に放映。

昨年、アメリカで放映されて大ヒットした話題作だという。
ただ、それから録画して毎回見ているのだが、シチュエーションがよくわからず、登場人物の関係もよくわからないでいた。
なにしろ、ケヴィンという主人公の声の吹き替えをやっている高橋一生が、あまりに下手くそで、台本を棒読みしているみたいなのが気になって、ストーリーに身が入らないのだ。
初の吹き替えということで、鳴り物入りで宣伝しているのだが、何とかならないものか・・・。
いくら自信がなく、今の仕事に悩んでいる役とはいえ、一本調子の声の固さは・・・。
字幕版が早く見たい。

ということで、NHKのサイトhttp://www4.nhk.or.jp/this-is-us/27/でこのドラマのことを調べてようやく、わかった。

このドラマには、主要な登場人物が3人いるのだが、タイトルが示しているように、3人とも36歳である。内、ケヴィンとケイトは白人、残り1人のランダルは黒人。3人とも同じ日に生まれた。

見ていてややこしいのは、現在の3人の物語の中に、彼らの両親の若かりし頃の物語が、時々入れ替わって挿入されるからだ。
最初、昔のシーンだとわからないで見ていたから、白人と黒人の3人の子どもを持つ家族が別にいるのだと思っていた。

番組サイトを見て分かったのは、ケヴィンとケイトは男女の双子。実際は、三つ子だったのだが、3人目が死産で、同じ日に新生児室に運び込まれた黒人の捨て子ランダルをその場で引き取り、養子にして育てたのだ。そうだったのか・・・。
ちなみに、父親はヒスパニックの建設会社に勤務する労働者である。
現在はすでに亡くなっており、ケイトが骨壺にいれた遺灰を手放せないでいる。
母親は夫の亡き後だか、生前だかはわからないのだが、夫の親友だった男性と再婚して、子どもたちとは別れて暮らしている。

兄のケヴィンは俳優で、TVのコメディードラマで人気を博している。
妹のケイトは兄のマネージャーをしているが、肥満に悩んでいる。
これがほんとうに大きな女優さん(マツコ・デラックスさんを若くしたような)で、しかも美人。

こういう女優さんが主役級を演じられるアメリカのTV界はいいなあと思う。
しかも、ケイトは肥満に悩む人たちのセルフヘルプグループに参加しているのだ。
これが、私がこのドラマを見て、AAのようだと思ったシーンだった。

で、ケイトとケヴィンの二人は、お互いに共依存関係にある。
だが、外見だけの軽い男の役に嫌気がさしたケヴィンがドラマの降板を一方的に宣言し、ニューヨークの舞台のオーディションに挑戦することになり、二人は別れ、それぞれの人生を歩み始める。

黒人のランダルは、この3人の中ではもっとも成功した人生を歩んでいると言える。頭もよく、今はエリート・ビジネスマン。結婚し、2人の娘もいる。
3人を分け隔てなく育ててくれた両親には愛されたという気持ちはあるのだが、やはり実の親に捨てられたという傷を抱えている。
彼は実の父を探し当て、会いに行くのだが、父親は元薬物依存症のミュージシャン、現在は余命わずかだとわかる。
そこで、ランダルは父親だということを妻にも知らせず、友人だと言って家にひきとる。

とまあ、これが全体のシチュエーション。
ここには、人種の問題、依存症の問題、父親と母親の子育ての悩みと親子関係、階級の問題、生と死の問題などなど、多くの人が抱えている問題がてんこ盛りなのである。声高に訴えているわけではないが。
ケイトがセルフヘルプグループで、努力して痩せてきたというメンバー(後に恋人になる)に不満をぶつけるシーンなど、リアルに描かれていて感心する。

番組のサイトには、出演俳優たちがドラマについて毎回語り合う楽屋トークの動画https://www.nhk.or.jp/d-garage/program/?program=20もあって、こちらも面白いので、ぜひ。
とくに、36歳という年齢が、人生の折り返し地点に近づいていながら、自分はちっとも大人になり切れていないと感じる、微妙な年齢だと語られているのは、そうかもしれないと思う。
ただし、その後もいつまでたっても大人になり切れていない感は残るのだが…。

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